本屋に行ったら…
もう出ていた。
新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論
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エピローグみたいな漫画で4.28の話があった。ふーん、小林も少しは成長したか、みたいな感じはした。日本の問題はその近代史を含めてある意味で沖縄に集約されるものがある。ここを踏まえないで日本を論じることはできないと思うが…そう言うことは虚しい。小林はそこにきちんとぶつかったのだのなとは思うし、そのぶつかり方は、正攻法だろうとは思う。
ただ…。
そこで私は言葉に詰まるのだ。
筑紫哲也も池澤夏樹もある類型として沖縄にふれた。
ある意味では小林よしのりも類型ではある。
というのは、うまく言えないのだが、沖縄はなにかしら人生の全てを要求するように思う。くどいが、例だが、筑紫哲也も池澤夏樹も小林よしのりも、そのなにかに直面しただろうが、そこで引いている。怯えているという印象も受ける。彼らは、いやある意味で私もだが、自己をナイチャーという橋頭堡に置いて、そしてその関係として沖縄を考えている。しかし、たぶん、それは、だめなのだ。ナイチャーを完全に捨てるようなある狂気のような巻き込みのなかでしか見えてこない沖縄というものがある。それは沖縄が好きとか嫌いとか論じるとかいうものでもない。そこがうまく言えないのだ。
私は、なんども灼熱の沖縄の国道に立ちながら、自我が溶解していくようななにかを感じた。ナイチャーであることなどどうでもいいという意識にまである抵抗はあったが、それ自体もその熱気のなかで解けていくような感じがした。自分は沖縄に同化することなど所詮はできないし、その意味もないが、そこでなにかの近代自我が溶解していくあるなにかを感じた。熱帯雨林の夜のような漆黒のなかでじっと沖縄を感じつつ、なにかが壊れていくのも感じた。
しかし、体験を問いたいのではない。
うまく言えないが、私たちが自明で日本人であることのある根幹の小さな揺らぎ・あるいは大きなゆらぎが、沖縄のなにか狂気めいた力によって圧倒されることがある。
言葉はちょっと虚しいし、なにか沖縄それ自体に価値があるとも思えないのだけど。
ただ、そのある越えらがたい溶解や崩壊のようななにかに、沖縄があるのだろうなと思うし、それはある客体化を許すようなものでもない。