孤独というか…

 二十代の中頃、なにもかもダメで(その後もなにもかもダメではあるが)、機会あってカウンセリングに通った。結論をいうと、カウンセリングというのは、理論などどうでもよく、カウンセラーの人間的な力量それだけがある。幾人かのカウンセラーはまるでダメだった。率直にいうと、たぶん、当時の私は、甘っちょろいカウンセラーを見透かしていただろうし、それは傲慢というより、正確なものだったのではないか。
 幸い一人のおばさんカウンセラーが続いた。彼女は当時何歳だっただろう。40歳半ばだったか、30代ということはなかったか、未婚の人生を続けていて、そのころ結婚した。相手には子どもがいた。いきなり少年・少女の母になったと言っていた。
 彼女は、後に、私について、なんて元気な子なんでしょ、と思ったと言っていた。そういうものか、と思った。死にそうに思っていたのだ、自分では。
 それから彼女は、私の話を理解しようとした。これは、自分には驚くべき体験で、自分の話を理解しえる可能性というのは常になく、ある意味なげやりだったし、多くの人は私に対して、人の話を聞かない、なに言っているのかわからない、論理飛躍が多すぎ…などなどであった。
 だが、たぶん、私は、今思うと、理路整然と話したのではないかと思う。だが、こちこちの孤独のなかの思考は奇妙な造語などもあり、変な表現が多かった。
 若いころ人と話ながら、その人の、「心の透明性」というのが気になった。この概念は当時の私には一義的な概念だが、まるでなにを言っているのか通じなかった。私としても、そこを一義に考えるようになりつつあったので、他人とはコミュニケーションができなかった。
 「思いが折り重なる」みたいな表現もあった。たしかに、今思い出すと、奇妙な表現が多い。
 今も、そうなのかもしれない。
 話がずっこける。
 はてなでもう一つIDが取れると聞いて、ふと、日記でも書こうかと思った。自分だけの日記。なんだか笑ってしまうが。
 ここなど日記にすらなってない。
 自分はあまり嘘をつかないとかいっているが、自分を巧妙に統制はしているように思う(そうでもないか)。
 話にオチはないです。