脳論というのは多分幻想だろうとは思うが…

 ま、最初に言うけど、批判とかではないよ。
 ⇒崩壊家庭地方不良校出身東大法学部生の意見 - 脳終局的物質塊論

勉強も経験も精神力も喜怒哀楽もすべては脳の話である。これらは決して胃や肝臓や骨や足の爪先で起こっていることではない。紛れもなく中枢神経である脳で起こっている何かである。そして、どんなに勉強して脳のシステムを複雑に構築しようが、どんなに社会経験を積んで人脈を網羅し経験豊富な自分を演出しようが、どんなに厳しい試練を乗り越えて精神を鍛錬しようが、どんなに楽しい経験をして脳内快楽物質を放出しようが、我々の脳は、その最期、ただの物質塊として火葬場で空しく焼却されるだけである。思うに、我々の拠るべき人生の意味の基準はまさに脳のこの極限にある。

 面白いといえば面白い。
 哲学的には古典的な問題(偽問題)なので、別にどってことでもない。
 むしろ、ヴィトゲンシュタイン言語ゲームがまさにゲームであるように、こうした類型の疑似問題そのものが、思想的なゲームであろうし、つまりは、真偽の範疇ではない。
 というか、単純な話、こういうポップ・フィロソフィーがどれだけ世間の空気になるかということでもある。総じていえば、そういう空気になりつつあるのだろう。
 ちょっと飛躍するのだが、私達は、死後の生の希望を失ってしまった。
 たぶん、それなくしてもは、「民族」幻想が成立しないのではないかと思うが、ま、現実はそうだ。
 で、その反面が、脱色化されたスピリチュアリティみたいなものだろう。
 反立的にいうなら、人生の意味を禁じ手にしても、我々は、うすぼんやりと死後の生を考えるのであり、死者がどこに行ったのかと、無意識に問い続けるのだし、その無意識がサティスファイされるまで、我々の存在は病むようにできている。