徳田球一

 沖縄で暮らしながら、なんども徳田球一のことを思った。
 徳田球一を一言で言うなら、日本共産党創始者である。うちなーんちゅである。なごんちゅである。このうちなーんちゅが、日本共産党を打ち立てたのである。球一とは、琉球一の男、という意味だ。そしてその名に恥じないうちなーんちゅでもあった。そのことを今の日本共産党はなにも語らないに等しい。左派でうじゃうじゃする沖縄の左派が特にそのことを語らない。1998年に名護に記念碑ができたが、郷里の偉人としてこれを建てたのは政党で言えば、自民が主体であった。この時ほど、恥よ、共産党と思ったことはない。
 もちろん、共産党には言い分があるし、私もある意味でひでーめにあった。所詮ないちゃーの幻想なのかもしれないなとも思った。
 ⇒徳田球一

 毛沢東スターリンと会談し支持を得る一方、伊藤律らとともに亡命指導部「孫機関」から武装改革をはかるが失敗。 53持病であった糖尿病が悪化し、北京で客死した。 55年までその死は明らかにされないが、同年9月13日に北京で追悼大会が行われ、三万人が参列したという。