今の老人たちも戦後世代なので意外と現代史を知らなかったりする

 と、私などが言うのも僭越だが。
 昭和一桁世代というのは、物心ついたときにGHQ文化だから、意外と日本の現代史を知らなかったりする。そのあたりの極度の反発というか、自分をかなぐり捨てたくなるような嫌悪感みたいなものもあって、江藤淳とか西尾幹二とか西部邁とかにに出てくる。そのあたりを、いわゆる左派的な人達は、右派と見ているが、私なんぞから見れば、同じムジナですよと言えないこともない。小林秀雄がぶいぶい言った時代のものを読むと、この人達の若造時代が微笑ましい。というか、爺もみんな若造でした。そして、こういうのもなんだが、若造の愚かさというのを人は一生引きずることになる。もちろん、自戒と絶望を込めて言うのだ。
 ところが、私よりちょい上の小林よしのりとか、私よりちょい下の福田和也とかだと、そうしたものですらない。言い方は悪いのだが、歴史の感覚というものがおよそ感じられない。そこまで言うのもなんだかなと思うのだが、なんだろと思うのは、江藤淳西尾幹二西部邁とかだと、「ひもじいい」「腹減った、喰えないのくやしい」という泣きたくなるようなトホホな心情がある。あれが、小林よしのりとか福田和也なんかにはない。おぼちゃんだし、ぷくっとしているとしているし。回顧して自分の惨めさに全身発汗するようなつらさというものがない。が、その代替として小林には喘息、福田には…なんだろ家業継ぎか、ま、そういうパーソナルなものがある。が、そこから、歴史への通路が、いわば文学になっている。
 私は野坂昭如とかまるで好きではないが、ひもじいという絶対的な感覚からこいつが語っていることだけははっきりとわかる。そうした部分が、むしろ、老いた左派側にあるのだが…と書いていて言葉につまる。