宿命を超えて、自己を超えて

 事件については触れない。

2005年02月18日  糞親
『毒になる親』をアマゾンで注文。なんでこんな親の下に生まれてしまったんだろうと昔からずっと思い続けてきた。そもそも奴らがセックスしなければ俺は産まれてこなかったわけだ。産まれてこなければ一切の苦痛を味わうこともなかった。それだけで親を恨む理由になる。勝手に子供なんか作ってんじゃねぇよと。こんなことを考えていると非常にイライラする。だから寝る。本当は死んでしまいたいんだが、とりあえず寝る。破壊的妄想が頭を離れない。自殺の方法や両親への復讐の方法をシミュレートしながら憂鬱になっている。まるで意味のない行為だ。だがこの精神状態から抜け出すことができない。いつまでこんな状態でいなければならないのだろう。父親が定年退職したらますます状況は悪くなる。四六時中あいつと顔をあわせなければならないなんてこの上ない苦痛だ。そろそろ終わりにしたい。

 いい文章だと思う。ただ、文を見るに。
 もちろん、陳腐な内容ともいえるし、現代の子もこう思うのかという時代の変わりなさに、ある種こころ打たれる。
 人の親というものは、子供がこう言うならそれを受け止めなくてはいけない。それをどう受け止めるかという答えはない。親というものなら、お前がこの世にいて欲しかったのだと強く伝えるだろうとも思うが、世は千差万別である。このような子を世間に突き落とすことが結果的に慈悲になるかもしえない。生き物の世界では、親は子を家から追い払うものである。チロンヌップを見よ。
 具体的な状況としては、誰かがこの子の頭を冷やしてやるべきなのだろうが、それがありうることすらが一種の奇跡とも言えるので、それを一般的に期待はできない。
 してみれば運命なのか、といえば、それは、多分に運命だ。
 この子は、男になり、どう女を抱くだろうと、私はふと思う。さかもと未明がブログで、中出し処女とかいっているが、同じような問題だ。
 禅的に言うなら、「本当は死んでしまいたいんだが」という強い存在の促しはそれ自体、肯定されるべきだろとも思う。禅の悟りには、そうした死に近い契機がある。