狗子仏性

 狗子仏性については、あえていえばこんなものが解けないで道元の徒と言えるかと思う。が、くさすわけではないが、秋月龍萊など、ここがわかっていない。というか、一切衆生悉有仏性を、一切衆生、悉く仏性有りと下し、道元の解を心狭きと言うのだから、もうどうしようもない。勝手にしろ、外道と思うが、なにも悪意で言うのではなく、道元禅師がそういう解を外道と呼んでいるのだ。
 犬に仏性があるか? ない。あるわけがない。「悉有は仏性なり」である。
 だが、無門関は道元の解なのか、率直に言ってわからない。というか、無門関は六祖の伝承のように、禅ではないものが含まれているようにも思う。
 ちと気になってネットをみたらWikipedia仏性

仏性(ぶっしょう)とは、仏の性質、本性をいう。

 部派仏教では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捕らえ、厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切ることを目的としている。煩悩を断尽すると自然と身から火が出て消滅し二度と生じないとされ、この究極の解脱は灰身滅智(けしんめっち)と呼ばれている。
 これに対して、大乗の大般涅槃経では全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわち仏性があると説き、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができると説いている。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏といい、仏法修行の究極の目的とされている。また 勝鬘経(勝鬘師子吼一乗大方便方広経)などでは如来蔵という用語を使っている。

 まるでダメ。