かくのごとく見解する、凡夫の情量なり

 ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花菓もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条々の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれも根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。

 道元の思想はまったく金太郎飴で、これも、現成公案のそのままである。
 ただ、ここで、「たとひ凡夫の見解に一任すとも」というところに、禅師の優しさがある。道元に惹かれるのは、その法の厳格さと、猫を斬殺するにしのびないやさしい心があり、私なども、道元の仏法よりも、その優しさに惹かれてしまう点がある。
 そしての禅師のその優しさとはその生涯の苛酷さそのものの現れであったとしか思えない。道元を語る人は多い。道元に優しさを見る人は多い。しかし、道元の生涯を覆った虚無がその優しさを生み出しと得心する人はいかばかりか。いや、むしろ、人は私同様、道元の優しさに惹かれていくのだろう。