古今の時に不空なり

 般若心経などを解する人がよく空を奇妙に解説する。いわく、万物の本質は空なり、とか、縁起によるがゆえに空なりとか…外道に等しいと思う。
 道元禅師のいうように、「古今の時に不空なり」である。つまり、過去・今の時にあって、空にあらず、つまり、空ではないと言っているのだ。それは現成公案にも「あり」としているのに対応している。つまり、道元の言う「有時」である。時が有、そのものなのだ。
 別に言えば、時に有らざれば有ならず、空。時とは、今、己の意識のこの今の現在、つまり、今ということでもある。だから、万法ともに我に有らざれば、諸仏も衆生もない。なにもない。時は流れず、過去は存在しない。過去は無であるが、人は過去の意識を持つ。意識はつねに今であるにもかかわらず、人の心は過去の意識を持つと思う。花は哀惜に散るのである。人の心というのはそのようにできているのであり、それ自体が迷いである。
 仏道とはなにも仏教の実践ではない。花が咲くことも種が芽吹くのも仏道である。存在論・認識論的にみれば、ゼノンパラドクスのようにそこに生成はない。しかし、この世界は生成に満ちており、私のこの今の顕現の意識のなかで完全である。これが仏性でもある。
 そこで、おそらく道元はひそかにメッセージを出す。と言えば私も外道に近いのだが、つまり、人は迷いなく生きることができる、のだ、と。
 さて、じゃ、おめーさんには悩みなく生きているのか? ま、ツッコミもあらんか。正月だしな。冥土の一里塚であるし…。ま、悩みはあるよ。悩みだらけ、ということか。というか、禅は悩みの一如を解いていると思うのだが、この手の話は書くに虚しい。