道元と啓示

 ここまで書くとさすがにすっかりあっちの人みだいだが、いや、そうかもしれないのだが…。
 道元の仏性のとらえ方には、バルト神学の啓示に近いものがあると思う。仏教は宗教学的に見れば一種の自然神学であり、そこにはなんら超越を含まない。
 しかし…。
 まさに道元の少年のころからの謎である、仏性の問題でもある。なぜこの世界は悲惨に満ちているのか、と問い返してもいい。なぜか? 悲惨とは人の心であって、分別なき心に悲惨はない、というのは、私は外道だと思う。
 そうではない。たぶん、としかいえないのだが、道元は仏性の覚知を行者の倫理的な選択なき行動への課題として理解しているのだろう。人には、善への、限定されていながら完全なる実践への確信がこめられており、それは、バルト神学的な啓示の契機に等しいのではないかと思う。
 ここのところはもっときちんと考えなくてはいけないのだが、私は、思うのだが、ああ、八木誠一先生、と問うてみたくも思うのだが、禅とキリスト教の根底のリアリティにあるのは善的な世界への統合の理解ではなく、そうではなく、むしろ、実存のなかに超越的におきる啓示の契機なのではないですか。