そういえば最新号のSAPIOの小林よしのりの…

 読んだ。ま、ちょっとつかみ所がないなという印象はある。
 沖縄が米軍依存という話は数字で裏づけているわりに、この数字はきちんと押せば壊れるんじゃないかとも思った。ま、印象。
 一番抜けているのは、沖縄という生活空間の感性とそこからどうしてああいう政治風土なのか大衆なのかという共感的な感性なのだが。ま、しかたない。小林よしのりは、やまとんちゅうから動かない。
 そのあたり、李登輝など会っても、日本的な台湾人というかたちで、最初からブレがない。しかし、実は、ヤマト人も、沖縄人(琉球人)も、台湾人もその、ナショナルなアイデンティはそう明快なものではない。小熊英二なんかにも思うのだけど、この若い知性も基本的にそうしたジオポリティカルな基礎への疑いはない。
 しかし、生活感覚のなかにすぽっと入ってみると、そこは揺れるんですよ。
 自分なんかある意味で精神的にうちなーんちゅう化しそうになった。しかしならない。それはヤマト人だからという理由でもうちなーんちゅの問題でもない。このあたりはすごく難しい。台湾人や韓国人とのマージナルな部分にいる人間なら、その、奇妙な流動性というのになにか気が付くと思う。それが在日の意識とかでは陰画的に出てくるのだろうと思う、という意味で、私は、あまり在日が日本人との対立項のようには思えない。
 このなんというか、あれ私は何人なのかという底板みたいなのは、意外にベニヤ板みたくずぼっと抜けるし、邱永漢なんかしゃーしゃーと抜いてみせる。邱永漢は頭良すぎて軽薄に見えるが、同世代の東大生ではずばぬけていて、彼自身日本人の知性のアカデミックな限界は見越してしまった。そうしたとき、彼は日本の近代知性が産んだものでありながら、日本はふっと相対化されてしまった。そして、台湾すらも。
 ま、うまく言えないのだけど、実際に、生活圏での交流が深まると、ナショナルなジオポリティカルなものというは、生活感覚から脱色してしまうなにかがある。そこがどう問われるのかというのが自分などには重要なのだが、ま、そういう感覚の話はうまく論壇的にはならない。