昨晩は…

 いろいろ思い描いてという理由で寝付かれなかった。自分がどう生きていくか、どう社会に向き合っていくか。自分は、率直にいえば、廃人である。あとは、死ぬのを待つばかりだ、そう思っていた。事実認識からいえば、その通りなのだが、もう少し違った展開もあるのかもしれない。そう思って、胸騒ぎがした。こういう胸騒ぎは人生に何度かあり、このちっぽけな敗北だが人生を変えてきた。私は、ほとんど自分の全てを捨てたことも何度かある。私は孤独だったし不運だった、と、今思えばそう言うに恥ずかしい。しかし、その時点ではそう思う。そういう愚かしい存在であることから免れない。
 極東ブログについてもしばし考えた。本当のところなんのために書いているのだ?なんども自問した。たぶん、その意味は、もう少し未来に開かれているのかもしれない。
 朝、台風一過もあり、空気が澄んで富士山が見えた。不思議な朝に思えた。若いときは、そんな不思議な朝がなんどもやってきたものだったなと少し思い出した。
 私は死ぬ…もちろん、誰もがそうであるようにという以上の意味ではない。20年前が昨日のことのようなら、もしあと20年生きられても人生とは短いだろう。私は自分の老いにはもう屈服した。三島由紀夫のようにも江藤淳のようにもならない。小林秀雄山本七平のようにもなれないだろう、というか、私は彼らではない。
 私は私につながる、恥ずかしい言い方だがあるいは愛していると言ってもいいだろうこの世界の相貌の行く末を見届けることはできない。それはちょうど死んだ父が今の歳の私とその生き様を知ることができなかったようにだ。
 だが、そうした思いは奇妙な夢想を誘う。日本人を含め東洋人が祖先崇拝をするのは、そうした死者たちがじっと今を見届ける愛のような確信あるいは期待だったのだろう。私も、そうした意味での神に近く意識は死によって接近していくかもしれない。