許すということ
ときたま思うのだが、「私は人を許しているだろうか?」
私が神に許しを請わなくてはいけない、とも思う。
そして、表面的な意識では、私は誰も怒ってはいないし、許しているような気もする。
もっとも、神奈川県警本部刑事部長だった古賀光彦を許さねーみたいなのは別。個人的な問題ではないからな。
ただ、心のなかで本当に許しているかというと、どうもそうではない。
なぜかと思うに、どうも私の無意識は、運命を呪っている。運命の不平等を呪詛しているようだ。そして、当然ながら、運命で明るい顔している人間を呪い、そして許してはいない。あ、あくまで無意識的ということですがね。
幸運と不運がある。そんなものは私が生きて死ぬことの意味になんらかかわりがないと無意識的に得心するまで、この呪いはとけないだろうな。
イエスは不思議な説教をしている。史的イエスはわからないが、共観福音書のなかのイエスが説いていることは、たったひとつ、許せ、である。
この「許し」は、原語の響きでは、踏み倒した借金を棒引きにしてやれということだ。「負い目」とも訳されているオフェイレーマというギリシア語だ。
なぜ、イエスがそう言うかというと、私という存在そののものが神の信用貸し付けであり、焦げ付きだから、なのだ。神は私に投資したが、私は運用にこけたわけだ。
福音というのは、本当は、この焦げ付きを棒引きにしてやるという意味で、その条件が、おまえもそうしろということだ。
この存在論的な意味は、あまり神学的には問われていない。神学はどうしても、復活だの教義を支えなくてはいけないからだ。
イエスのこの奇妙なメッセージは、しかし、とても重要なことだろうと思う。信仰などまるで不要なところもいい。
私は許しているだろうか?
私を踏みにじった人々を許しているだろうか?
私を捨てた人を許しているだろうか?
彼らが、そうするしかないという存在のありかたであったことを、たんたんと是認できるだろうか。どうもそのあたりから「罪」というものの臭いがする。
「罪」は実は共観福音書的には二次的な概念に見えるし、神学のこの問題は、どうでもよい。
が、許し得ない存在=罪、というものは愕然とある。
どうも私、私たちの無意識は、そのことを知っている。だから、死ねないのだ、あるいは、死にたいのだ。死にきれないから死にたいと願うのだ、その背景にある形而上学的な罪…。
その意味で、罪は死の棘とはよく表したものだ。
私は青春時代、あの瞬間に愛した人を今、愛してはいない。捨てたのはどっちだかもわからない。が、存在論的には無意識的には許していない。私は死ぬまで彼女に会いたいとも思わない。だが、実際は老いた肉体はまるで罪が老いを刻むように、私たちを他人にしていく。つまり、実際は会えば、なんの関心もわきはしない。