「価値自由論」(大塚久雄著「社会科学における人間」p.214-6)

そうしたまったく異質な文化体系における人間行動の意味を、いったいどうやって分かることができるのか。これは非常に難しい問題です。しかも、このむずかしさは、対象的視野が世界的に広がっていけばいくほど、ますます大きくなっていくでしょう。
 ところで、ヴェーバーの有名な「価値自由論」(ヴェルトフライハイト)は実はその解答を意図するものなのです。もちろん「価値自由論」が内包する問題はこれに尽きるのではありませんが、少なくともこれから話すことがらは「価値自由論」の一つの中心をなしている、と私は思います。それはこういうことなんです。研究者はある特定の文化を身につけている。その価値観的立場を決して捨てるわけではないが、ただ理論の上で、まったく異質な文化状況のなかに身を置き、それに属する人々の世界観なり価値観の立場に立って、つまり、理論の世界で想像力の翼を借りて、そういう異質な文化状況の中にある人々の立場にかりに身を置いてみて、自分ならばこういうばあいにはどのように価値判断し、どのように行動するかを考える。そこに現れてくるさまざまな行動の軌跡、それに照らして、異文化に属す人々の行動の意味を理解していく。そういうことだと思います。そういえば、アダム・スミスも「想像の上で立場を取りかえてみる」といったようなことを言っておりますね。まさに、異文化間でそれを行うことなのです。
 もちろん、ヴェーバーのばあい、理論の上で異文化に属する人々の価値的立場に立って価値判断を行ってみると言っても、自分の現実の価値的立場や価値判断を放棄するわけでは決してありません。自分の現実の価値的立場や価値判断はあくまで保持しながら、理論の上では、 かりに異文化に属する人々の立場に立って考えてみる、そういうことができる自由がヴェーバーの言う「価値自由」なのです。それはそうと、異質な文化に属する人々の行動様式を研究する場合には、研究者はなによりもまず、相手の身になって、相手の考えや行動の意味を内側から理解しようとする、いや、そういうことのできる「心情」をもたねばならないし、さらにそうした心情を学問的な方法意識にまで高めていかなければならない。それを教えてくれるのがヴェーバーの「価値自由論」だと私は考えています。

 これが社会学の最大の基礎。というか、現代的には、理解社会学とかなるのだろうか。
 ここで重要なのは、相手の心情をくみ取るのではなく、理念化されたモデル=理想型、を使うところだ。
 つまり、理想型という方法論を使って、その中で人間の心を動かす自由を持つことが社会科学の最大の基礎であり、意義なのだ。
 自然科学では、ニュートン力学のモデルのなかに思いを入れることはできない(ニュートンは入れているのだが)。
 ここで、昨今、ネットで若い人の思想を見るに、ダメだなぁと思うのは、自然科学論の最大の基礎がまるでなってない。
 ニュートン力学アインシュタイン特殊相対性理論のどちらが正しいか?、みたいな議論はまったく無意味。というのも、どちらも、それぞれのモデルが構成した宇宙に対する理論であり、それは、本当の宇宙に対する近似的な目論見でしかない。そして本当の宇宙とは人類のセンスデータに依存している。つまり、科学とは、我々のセンスデータを延長させて生きるという目論見、意志の表明でしかない。
 これは命題論理学を考えてもいいし、つまるところヒルベルト主義の内包したことでもあり、日本の哲学志向の馬鹿たれたほとんど誤解しているゲーデル自然数観でもある。つまり、命題はそれが真偽を決定する空間に依存している、とも、いえるが、命題それ自体がその空間セットの定義でもある。自然科学理論とは基本的にこのトートロジーしか意味していない。のに、これに先に触れた、真実の宇宙への素朴な希求が含まれがちになるのだ。くだどいが、天動説もニュートン力学も100%正しい。アインシュタイン特殊相対性理論も100%正しい。トートロジーだからだ。
 しかし、自然科学が企図しているものは、本当の宇宙であり人類のセンスデータの拡張なので、そこから、すべての命題をフラットにした反証可能性を持って自然科学とするという提言が出てくる。ここで注意しなければいけないことは、反証可能性それ自体が時間の可逆性を含み混んでいることだ。つまり、そこにも我々人類の「生」の意図が含まれている。が、まぁ、そんなことはどうでもいいとしよう。
 ある命題が自然科学的な命題であるかは、この宇宙で反証可能的であるかだ。そして反証可能な命題の集合は妥当な宇宙モデルを作りかねないが、その基礎は全くの無だ。
 サイコロを振る。1の出る確率は、トリビアの泉ではないが、正確に1/6ではない、が、それはトリビアの泉であって、モデル的には、1/6となるかに思える。が、ここで、「サイコロをふって1の目の出る確率は1/6」という命題は、どのように反証されるのか?この冗談でわかるように、反証はできない。
 およそ、確率は時間の可逆性を先験的に含み混んでいるもので、それが自然科学の基礎になっている。と、ここで気が付くべきなのだが、量子力学的な宇宙モデルはこの確率を含んでしまった。
 話がめんどくなったので、中断。