フッサールの洞察としての数量化

 通常、我々が自然科学だと思っているのは、フッサールが見抜いたように数量化である。
 あるクオリティがクラスの定義によって、つまりその内在のプロパティによってクオンティファイされる…数量化されることで、操作可能になる。オペラブルになる、というモデルができることが我々の文明にとって、自然科学なのだ。定義ではない、フッサールはこうした科学者を馬鹿者と思っているのだ。
 落下現象や光子の運動は数量化されたモデルとして記述ができ、「理論」ができる。同様に、経済学や社会学も数量化によって理論ができ、その理論を使って、反証性が確かめられるかのような…幻想を抱く。
 しかし、数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ。
 自然科学のほうは、基本的に、自然を対象化し、センスデータとしてそれを支配しようとする人類の意図、というか、生物というのはそういう存在なので、そうしているのだが、がだ、社会科学がこれを偽装するとき、とんでもねーことが起きる。
 結論を言えば、人間の支配の意図が、先験的に組み込まれてしまう。
 例えば、日本は少子化である。少子化の傾向は数量モデルができる。そして、各種のモデルから、かなり妥当なモデル…そのモデルはパラメーターを操作することで少子化を阻止できるモデル…も可能になる。で、このモデルは、いかにして正しいのか?
 やってみるっきゃないでしょ。だ。その意味は、なんとおぞましいかということに気が付かなければ馬鹿だ。
 とはいえ、こうした偽装された社会科学があたかも自然科学のように振る舞うことがある。マクロ経済学などもそれ臭いが…価格と通貨量などトートロジーでその意味で無意味なのだが…ということはどういうことなのか?
 たぶん、我々の「生」の構造における機械性を意味しているのだろう。それを、自然科学は自然性と呼ぶわけだ。
 この問題は、まさに、ウェーバーマルクスだよな。