それで続き

コメントありがとう。

すでに漏れは、「吉本は関係ない」といっているにも関わらず、そして氏自身が上っ面で否定しているにもかかわらず、相変わらず氏は共同幻想論的な立場から論じているに過ぎない。

ええ、私は今回の問題を共同幻想論的な立場から論じています。つまり、共同幻想=国家の次元で見れば、新聞各社の社説のとおりになります。
 しかし、この問題には、対幻想=家族幻想の次元が大衆の意識=社会問題として介在している。
 で、この問題にはまって気が付いたのは、共同幻想性の正義の言説が、対幻想性の言説(「親がしっかりしなさい」)などを、抑圧ないし、バッシングしていく機能を持ちはじめている実態なのだ。
 単純な話でいえば、「親がしっかりしなさい」と言うことがタブー視される社会状況を作り出しているということ。それは俺は危機だと思う。
 今回の事件は100%六本木ヒルズが悪い。朝日新聞の社説だってかけるほど単純な問題だ。そして、この事件の親御さんには100%責任はない。これもPL法や安全技術、司法を少し知るものなら原則的にわかる。
 だが、そうした共同幻想側の文脈と対幻想=家族幻想側の文脈は、独立する。
 そして、後者の独立性が維持されないブログの言説のあり方に俺は危機を感じているのだ。
 大衆は言説からはバカに見えるものだ。大衆は最終的に対幻想=家族幻想のなかでしか生きることができない。そして、その大衆は、言説という場で、共同幻想=家族幻想の言説に戦えるはずがない。沈黙して自分の生活を生きるだけだ。大衆の原像というものは語ることがない。
 知識人の役割とはなにか。この大衆の現像から言葉を紡ぎだして、共同幻想=国家幻想の言説と対峙してみせることなのだ。

と漏れがかつて書いたのは、議論の前提として共同幻想論なんて関係ないじゃないか、という意味だけでなく”漏れにとって”は吉本なんか評価する価値もないよ、と言っているのである

 それはまったく構わない。吉本の議論などフォローする必要はない。そうでなく、吉本が提起したこうした構図と社会の言説をどう理解するかということなのだ(それは戦後思想史の継承でもある)。それを、吉本なんか関係ないからといって、「反資本主義活動等非常取締委員会」はきれいに切り捨てているように見える。
 きれいすぎるのだ。
 だがこの事件が大衆社会にもたらした影響はそうきれいなものではない。大半の母親たちは、「ちゃんと子供の手を引こう、でも、それを言うのはやめとこう」という心情に追い込まれた。つまり、このきれいさというのは、語ることを抑制さした索漠とした光景でしかない。

そして、氏の論理は吉本の理論上の欠陥に起因する破綻だけでなく、氏自身に起因する破綻も存在する。第一の問題点については、議論と漏れに対する個人的感情が分離できていない点だが、これについては多くは述べる必要はないだろう。第二には、以前も触れたが「国際問題を自己の国家幻想に投影し論ずることとは偽善である」と断じた人が、事に「親が悪いよという感性」になれば対幻想の延長たる独立領域にあって偽善ではないと言えるのか、だ

問題点の1については、四月馬鹿として受け止める以外はない。つまり、「多くは述べる必要はないだろう」ということ。2点は、誤っている。
 「国際問題を自己の国家幻想に投影し論ずることとは偽善である」は個人幻想の領域である。そして、それは対幻想の世界とはまた独立しているのだ。
 もちろん、それを理解しろということは、吉本を理解しろというに等しい。そして、俺がそう言っているように聞こえたかとも思う。というか、それは俺より上の世代の闘争を通してえた経験則でもあった。
 が、それが通じないということはわかった。そしてそれを理解しなければならかいかのように議論を展開していることは、俺の誤りであるという指摘は正当だと評価できる。
 で、問題はこの記事の前段に戻る。なぜなら、吉本理論が問題なのではなく、吉本が提起したことが問題だからだ。
 だいたいが、大手新聞社説が雁首ならべて同じきれいごとしかいわない、それでいて大衆の意識が乖離している社会の言説の状況をどう知識人は受け止めていくのか。
 つまり、そこを齟齬として受け止めなければ、知識人は国家幻想のなかに飲み込まれていくのだ。
 社説が雁首ならべてきれいごとを言うときは、社会言説は死んでいるという指標にしてもいいくらいなのだ。(しかも、今回は各紙ともひよってひよって正論が出てきている。)