今日の大手紙社説

 カルテル問題などが話題でもあるが、他も含めて説くに新味のある話題はなかった。つまり、今日も特になしの日ということか。
 産経で教科書の話題があるにはあったしそしてどうでもいい話題だ。それに限らないが、内容が想定できるオピニオンみたいなものはざっと読んでいるだけで自己催眠的なものを感じてくる。本当はそうじゃないよというのを言えば、とんでもない目にあいそうな空気がかくして醸し出されていくのかも。

朝日社説 対がん50年―患者に寄り添う時代に : asahi.com(朝日新聞社):社説

 朝日新聞社は協会設立を後押しし、支援してきた。設立時の本紙社説でも、がん征圧への協力を呼びかけた。そのなかに「ガンは極めて難治」という言葉がある。いま、がんは治せる病気になった。

 なかなかコメントしづらいね。

朝日社説 税の無駄遣い―強い検査院をつくりたい : asahi.com(朝日新聞社):社説

 検査院は、犯罪を見つけたら検察庁に通告する義務を負っている。だが通告した例はほとんどない。端緒をつかんだら、すみやかに通告する。それが不正の抑止にもつながるだろう。

 それがシステムだったからね。

 検査院の強化は無駄遣いを減らすための一つの手段にすぎない。事業や計画が本当に必要か否かを判断するのは国会や政党の仕事だ。それを通じて「無駄ゼロ」に近づけることなしに、納税者は増税を受け入れまい。

 国の問題と地方の問題は分けたほうがよいとは思うが。

今日の一冊 「地図のない道」須賀敦子

 福岡伸一さんの私の1冊「地図のない道」須賀敦子 | NHK 私の1冊 日本の100冊

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地図のない道 (新潮文庫): 須賀 敦子: Amazon.co.jp
 たぶん、須賀敦子福岡伸一を出すための企画だったのではないか。
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生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891): 福岡 伸一
 この本はざっと読んだが、トンデモ本?とも思った。そういえば、「もう牛を食べても安心か (文春新書): 福岡 伸一: Amazon.co.jp: 本」もそう思った。ただ、これこれだからトンデモですなというにはめんどくさいなとも思った。「生物と無生物」の帯の推薦者が面白いので画像を大きめにしておこう。最初からそういう趣向だったのかな。
 こういうとまたぞろ悪口みたいだが、須賀敦子福岡伸一も編集者好みの著述家だ。ついでにいうと、模擬先生も内樹先生もそうだ。こちらはなにより他作で安定して捌けるのがうれしい。
 福岡伸一については以前の爆笑問題の対談のほうが面白かった。なんだかんだ言ってもまだこの人の思いはうまく引き出されていない感じがした。今回の番組でも、福岡が須賀に心惹かれるのは信仰の部分だ。そこがたぶん制作者にはそれほどよく見えていない。見えていたらこうベタな語りにはしない。
 編集者というのは、言うまでもなく、一流の読者でもあるが、それがビジネスである部分、汚れたり偏執的になったりする。本が好きなら編集者にはならないことだと気が付くとき、その業からはもう出ることはできない。いや大衆文学の場合はそうでもないか。業というなら、安原顯がうかぶ。
 余談の連想だが、このところフーコー吉本隆明の対談を見直そうという動きがあるが、あの企画をもってきたのは安原だったか、通訳は蓮実重彦だったと思う。オリジナルは残っていないらしい。あの対談は、端的に評価するなら、吉本はただのローカルなおバカな思索者でしたということだろう。そのことは蓮實には実感されたし、それはそもそもフーコーになんにも通じていないことで確信されただろう。浅田はこの件への言及はないが、端からくだらないなと思っていたに違いない。問題は、おそらく蓮実の心情だろう。それなりに二者の意味がわかっていた。そして通訳としては上質だったと言ってもいいはずだ(ただ、そこにある種の決定的な問題がひそんでいるとは思うが)。蓮実は吉本の悪口をそれなりの気品で書いたことがある。そして彼のエピゴーネンがそれをまねたとき、実は蓮実は内心怒っていたというかバカだなと思った。吉本さんの言うことはめちゃくちゃだけど、君たちよりぜんぜん面白いんだと。別か所で、吉本さんは怖いとも言った、天皇に怖いところがあるように。もちろん、その怖さの意識も通じないだろう。
 吉本は蓮実を世界的に見れば二流の学者だね、お前さんはというふうに軽く見る。蓮実はそれを実質受けて、その分野ではトップの5に入るのだと言ってのけたが、吉本なら、はは、学生さんならそれを真に受けるでしょうなと笑っただろう。この機微は、蓮実はたぶんそれに怒ることなく、その意味を知っていることだ。蓮実の怖さはアカデミズムの限界を知っていることだ。
 話が全然それた。
 須賀敦子には関心がわかない。今回朗読を聞いてもそう思った。嫌いなタイプの作家ではないし、読みやすそうなので、読むかもしれない。

NHKドラマ6 七瀬ふたたび

 ⇒次回予告・各回のあらすじ | NHKドラマ8 七瀬ふたたび
 まあ、安定的な調子。脚本が緻密にうまく伏線を継いでいる。十回ものできちんと終わりが想定されている作品は安心して見られる。

シンクロニシティについてちょこっと

 このところシンクロニシティについて考えることがあり、なんとなくメモ。
 ウィキペディアはれいによって疑似科学撲滅運動の対象のようになっているが、歯切れが悪いというか、この問題の難所がよく理解されていない。それ以前にパウリがよく考察されていないふうもあるが。
 ⇒シンクロニシティ - Wikipedia
 この問題は、れいのブラックスワンにも関連するが。
 確率的に有り得ないような事象が発生することで、コンテクストが変わってしまうということがある。
 そうとらえたとき、問題は、またしても「確率」にある。
 科学は、確率が出てきたとき、いつも奇妙な陰影を持つ。
 「明日雨が降る確率は60%」という命題がどんな意味が持つか、たぶん、哲学的には分かっていない。
 日常的にはわかっている。過去の事例を考えてみると、この状況では、そうなる確率が60%「だった」ということ。つまり、これは過去への観察だ。
 ところが先の命題は未来に投げられている。
 このあたりはそれほどアポリアでもなく、ようするに、科学とは「再現可能」でなくてはならないし、いわゆる反証可能性というのは、反論しうる、ではなく、論理の是非を実験によって付けることが可能であるということだ。当然、時間の再現性が含まれており、つまり、それは、レーベンズヴェルトの時間ではない。
 この確率の奇妙な振る舞いは、おそらく量子力学の不可解さと同じで、経路積分の似たようなものだ。
 そして、それは、実験系では、正しい。だから正しいとなるのだが、ここで一個の量子についてはなにも言及できない。
 トンデモ科学を言うようだけど、我々の人生というのは、実は、私という一個の人生という観察者を持っていて、実は、なんにも未来がわからない。人はすべて死ぬ、ソクラテスは人である、ソクラテスは死ぬ、はただの冗談でしかない。時間は含まれていないし、そもそも人が定義で可能であったのは、ソクラテスインスタンス経路積分のようなものだからだ。
 話を戻して。
 シンクロニシティとは、ようするにそれが意味というかコンテクストに浮上するから意味をもつわけで、おそらく事象の多様性には、観察者なくしてはなんの意味もない。おそらく、仏教で言う無というのはあるいは雑駁に空というものは、そういうことなのだろうと思う。つまり、べたな存在論ではなく、一種の名辞論なのだろう。人が存在するのは、人が意味了解可能だからということであり、その了解における意識そのものが名辞の行為と同一であるということだろう。たぶん、道元はそう見ている。
 ブラックスワンのような問題は、だから、コンテクストが予定されているような意味了解可能な地点で発生することがあり、それは、結局は確率事象ではあるのだろう。
 ここでやっかいなのは、すべての知覚は現在であり、認識は過去という物語と現在の知覚によることだ。こういうといいかもしれない。ブラックスワンがやってくることはない。確率的にほぼゼロだ。すべてのブラックスワンは過去の物語だ。そして過去が物語れること自体、確率を無視しているというふう文脈を再構成するしかない。つまり、それなくして我々はありえないという現在の存在がそれに依拠している限り、確率は存在しない。
 そんなアホな、というところだが、生の時間はそうした構造を持つし、そもそも過去によって確率を排除したような意味論から成立してしまう。
 その意味で。
 シンクロニシティとは、既知なる未来へというか、文脈の変更への意志なのだろう。
 というか、およそ意志とはそういうものでしかないのかもしれない。
 ややオカルトがかるが、世界の意味を変えたとき、シンクロニシティが発生する(了解する)。
 実際の実経験において、やっかいなのは、しかし、グレースワンとでもいうべきものか。
 卑近な例で。ある失恋があるとする。
 その恋なくしては生きることもできなかったのに失恋してしまった。という意識体はそれを意味化せざるをえない。「私」は失恋を包括して存在するし、そこで微妙な肯定がなされる。
 そして、たぶん、こうした包括は、言い訳というよりも、そのように私がなお未来に生きるという意志の意味を表現しているのだろう。
 やや飛躍するが、過去から意味を汲み取ることができたとき、世界が変わり、シンクロニシティが現れ、気が付くとブラックスワンがすべてを焼き滅ぼしているのだろう。
 ここまでいうとさすがにオカルトだが、ごく単純に、過去を反省すれば新しい明日がやってくるというふうに言ってもいいかもしれない。
 たぶん、問題は、シンクロニシティの了解にある。
 それを、シンクロニシティとして了解することに抵抗する今の自分という意識が、この世界そのものだからだろう。
 おそらく、その抵抗を打ち破るのは、意識の外部なのだろう。だから、まさに、シンクロニシティは、ええええっと我々を驚愕させるか、嘘でしょ、考えすぎでしょ、私、気が狂っているでしょ、というふうに到来するものだろう。
 まあ、ここで、意識の外部を無意識とすれば、またもユング=パウリはよく考察されていなということになるのか。
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - シンクロニシティについてちょこっと - finalventの日記

2008年11月15日 pbh シンクロニシティは「凄い偶然」以上のものではない。人が「偶然」と思うのは偶々連続して|同時に|起きた事柄に勝手に「意味を見出す」からに過ぎない。トートロジー

 そういう話題じゃないんですよ。たとえば、pbhさんが受胎するには精子でみるなら何億分の一くらいかな。で、pbhさんがこの世に存在してなんか言語も操っているかのような存在になったかのような状態は一つの精子からすると「凄い偶然」なんだけど、じゃあ、そうして現在存在しているpbhさんはその偶然の上になりたっているわけなのに、そこでpbhさんが「「意味を見出す」からに過ぎない」と言いえるのは、その偶然を必然のように内包した前提条件があるよね、ということ。そしてそこは、どうにもトートロジーになりにくいってことなんだよ。通じないかな。通じなさそうだね。ほんとに乙、って感じかな。

2008年11月15日 ublftbo 疑似科学, 科学 疑似科学撲滅の運動をしている人がいるのか……それは恐ろしいなあ。

 これは揶揄のつもりなんじゃないかな(あるいは洒落がわからんか)。

2008年11月16日 takanorikido アルファブロガーがあからさまなトンデモにはまって恥かく事例が異常に集中してます! 確かにシンクロニシティです!(笑) …ほんまこの癖さえなければfinalventはわりと理想の知識人なのだが、ないものねだりかな。

 たぶん、「シンクロニシティ」とか言ったとたんにトンデモ認定というくらいのご意見かな。もちろん、私も科学をきちんと語る文脈ではそれを言うなというコードを知っているから言わないよ。そして言わないことで理想的な知識人であるのは、社会からそういう知識人を求められたときだけだよ。まあ、決めつけないでパウリでも読んでご覧なさいなとも思うけど、ダメなんだろうな。ちょっと揶揄に聞こえるかもしれないけど、この手の表層的にトンデモ認定する人たちはえてして、トンデモ耐久力が弱くて、ころっとトンデモに回心しちゃうことがある。シンクロニシティがtakanorikidoさんをおそってころっと回心するというか、そういうことがないといいと思うのだけど。まあ、人生奇っ怪なことが起きるもんだよ。それに向かって、理性を保つっていうことがどういうことかと私は思うのだけどね。まあ、ご自由に。

2008年11月16日 j-kondo 科学, 疑似科学, 心理  どれだけ統計的に意味がない、科学ではない、論理的でないと説明されても、いっこうに「血液型と性格の"科学"」が廃れないようなものでしょうか。→『シンクロニシティとして意味了解されててしまう人間の心性』

 これをいうとまたトンデモ・オカルト認定になりそうなのだけど、こうした心性のありかたにはそれなりのメタ意味があるのではないか。というか、この問題、エントリ中では失恋を例としたけど、現実的には恋愛に関係する。私たちの恋愛はたぶんにシンクロニシティ「的」。もちろん、そういう言葉を使わなくてもいいのだけど、ご縁とか出会いとか運命とか。いずれにせよ、そうした偶発的な、そしてそこで新しく意味が開示されるような外部の力との遭遇がある。あるいは、現実にはそんな恋愛がなくても、恋愛というものはそういうふうに描かれ、私たちの生に独自の意味を与えるというメタ的なものをもっている。この問題は、シンクロニシティですかぁ、はぁ、オカルトですか、とんでもですか、アルファブロガー気違いほいほいと、そう簡単な問題ではないような。
 
追記
 なんか誤解されているなぁ、まあ、しかたないけど、どこでこうもべたな誤解がなされるのかと思ったけど、あれ、もしかして、私がシンクロニシティが実体的に客観的にあるとでも思ってこれを書いていると思っているのでしょうかね?
 そんなことは全然ないんですよ。
 シンクロニシティがあると言っているのではなく、シンクロニシティとして意味了解されててしまう人間の心性っていうものはなんだろうということと、そして、その意味了解をもとに個人が意味的な活動をしてしまうというのは、もうどうしようもないんじゃないか、というあたりの、一種の現象学的な明証性であって、客観的なということではないんですけどね。
 
追記
 参考
 ⇒ほいじゃ再録 知の構築とその呪縛 - finalventの日記
 ⇒極東ブログ: [書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク)
 ⇒極東ブログ: [書評]わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか(ロバート.L.パーク) その2
 ⇒なんというか - finalventの日記
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/dlit/20080130/1201670752#c1201909033

NHKスペシャル 病の起源 第3集 腰痛、見たよ

 録画リストにあったので見た。
 ⇒NHKスペシャル|病の起源 第3集 腰痛 〜それは二足歩行の宿命か?〜
 二足歩行が腰痛の宿命?とかサブタイトルにあったので、くだらねかなと思ったら存外に面白かった。
 アフリカの狩猟採集の部族の男たちに実質腰痛がないというのも、ほぉと思ったし、腰痛が農耕文明から始まるというのもそうかなと思った。
 で、ほぉと思ったのは、腰痛の原因の85%はわからない、素直に放送していた。そう。
 そして心因性やストレスに焦点を当てていた。
 特に面白かったのは、脳波の状態で、物理的な損傷がない痛みが視床下部を経由していないことだった。前頭葉だけで痛みが作成できるようだ。

最近、その現代の腰痛を引き起こす意外な原因が明らかになってきた。痛みは腰ではなく脳の中で作られていた。大きな原因はストレスと考えられている。ストレスは、どのようなメカニズムで人間の弱点の腰を襲うのか、時代を映す鏡のような病、腰痛の正体に迫る。

 ストレスを与えた場合に、背筋に不要な緊張がかかるという実験も面白かった。このあたりはフェルデンクライスは知っていただろうなと思った。
 これについては触れていなかった。
 これ⇒極東ブログ: [書評]サーノ博士のヒーリング・バックペイン(ジョン・サーノ)
 サーノ仮説は案外検証できるのかもしれない。

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サーノ博士のヒーリング・バックペイン―腰痛・肩こりの原因と治療: ジョン・E. サーノ, John E. Sarno, 浅田 仁子, 長谷川 淳史: Amazon.co.jp

NHK 菅野美穂 インド・ヨガ 聖地への旅、見たよ

 ⇒NHKアーカイブス 保存番組検索: プレミアム10 菅野美穂 インド・ヨガ 聖地への旅
 途中たるくて飛ばしたところもあったが。
 ぐぐったら。

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菅野美穂 インドヨガ◇インドヨガ 聖地への旅◇美しくなる16のポーズ: 菅野美穂: Amazon.co.jp: DVD
 そういう企画でしたか。
 途中やっているヨガはきれいにできていた。一年であれだけというのは、素質もあるのだろうなと思った。
 番組はなんか最初から偉いグルに会って感激みたいな設定になっていたのでしょう。まあ、そんな感じかな。
 私もヨガはよくやっていたので、いろいろ思うことはあったけど、なかば関心を失った。