まぶちすみお代議士、沖縄がわかるよと宣う

 ⇒まぶちすみおの「不易塾」日記:意見のまとめ方:まぶち すみお

 沖縄入りの反響がスゴイ。
見ず知らずの方からのご連絡や、かつてご縁のあった方からの
一報などフォローしきれない。

相当に、たまってるんだな、沖縄県は。
うん、よくわかるよ、と心の中でつぶやく。

 歴史も勉強してね。それと、通訳つれて、オジーオバーの肉声も聞いて僻地も歩いてくれ、と、いう以前にもっと普通のシングル家庭を回って現場の母子を見てきてくださいね。
 もっともっと微妙⇒わたしと沖縄/第11回

タミフル話題byフィナンシャルタイムズ

 これ⇒Roche downplays Japan's Tamiflu concerns - Financial Times - MSNBC.com

The fresh restrictions in Japan highlight the broader difficulties in understanding cause and effect in treatment using medicine, and the challenge for regulators in balancing their risks against benefits.

European regulators last month recommended a modification to stress that there had been "reports" of such side-effects. The Japanese continue to emphasise the lack of a causal link, although the country's doctors and public opinion tend to be less tolerant of side-effects from medicine than their counterparts in the US.

Eduard Holdener, Roche's head of global pharmaceutical development, stressed that Japan had a high suicide rate, and that flu itself was often associated with neuro-psychiatric symptoms. He added that Tamiflu had saved many lives,

 おまけ。
 EU⇒EU says Tamiflu safe to use despite Japan's suspension for teenagers+ : Therapeutics Daily
 ⇒Health alert over Tamiflu, bird flu spreads in Myanmar | Reuters

ちょこちょこ書いてきたんだけどねon道教

 ぶくま⇒はてなブックマーク - アヴァンギャルド精神世界 天皇は道教の最高神名だった
 ⇒極東ブログ: キトラ古墳の被葬者は天皇である
 ほかに⇒道教 - Google 検索

あーそんなことはもう書いた的

 ぶくまとか見ていて、ああそういう話は以前書いたな。たいして読まれなかったなとか思うことが多くなってきた。
 ので、あらためてさして書かない。
 というのが循環になると、つまり、ネタがないということで。
 それはそれでよいのではないかという感じがする。
 あと。
 その話題はもう私は関心ないというのも多い。
 関心ないものに関心を持つほどのものでもないだろうと思う。
 うーん、「差別」とか。
 ちょっと言うと日本にいると、なんというか、それほどひどい差別はなくなりつつある。そういう言い方も通じないと思うのでどうも口ごもってしまう。
 欧米人のマジな差別意識にぶつかったら、まあ、小林よしのりくらいにはなるよ。でも、そういうのを10回くらい経験して小林よしのりにならない道を探すというのが全うな考え方だと思うだが、ま、それも通じないでしょ。
 というか。
 別に通じなくてもよいのであって、わかる人はわかるのであって、だから、やはり、あまりブログに書くこともない。
 循環。
 先日ちょっとだけ書いて、ま、それ以上は書かないとしたので、あまり書かないのだけど、買売春とか、「じゃ、あんた買う?」「じゃ、あんた売る?」という「あんた」というか、「私」のべた部分というのは、語らなくてもいいのだけど、でも、なんかしこたま語ってもそこは薄暗く残るわけですよ。
 あまり言ってはなんだけど、「売らなきゃならない」ような現実だってあるわけだし。もうちょっと想像力があれば、「買わなきゃならない」ような現実だってある。で、議論だとそんな現実はねーとかなる。でも、そういう境遇に自分を置いてみる想像力っていうか、ま、ま。
 で、と。
 増田とか面白いなというのは、匿名なのに、匿名だからか、そういうべたな「私」が露出することがある。はじめてセックルして、女の子のおっぱいがやわらかった、とか、またしたい、とか、ま、人間というのはそういうべたな「私」をコアにして生きているわけで、別に議論なんか不要というか、コミュニケーションが大切とかいうのもあるだろうど、「公」のルールに関係ない部分の「私」の隠匿性のなかで、みなさんべたな「私」が生きているわけですよ。
 ついでに。
 増田とかで、19歳の男の子が34歳の人妻を孕ましたみたいな話題があって、先日、そういうのがネットにあるんだよと、ととある40歳女に話したらいきなり爆笑してましたよ。爆笑はねーだろ、真剣な問題だよとか言うとさらに爆笑。いや、もちろん、爆笑しちゃあかん問題なんだよ、現実的にはね。死人が出る問題でもあるし。でも、ま、人生というのはいろんな局面がある。
 どうも、最後に説教臭くなるな。
 あかんな。

物を書くということと、書いて食うということについては

 私は書きたくない、というのが正直なところ。
 書くというのは、私にとっては、ごにょごにょ。
 ブログとか日記を書くということは、私にとっては、ま、特に考えないでそうしている。
 この手の物は誰かが読むというものではなく、自分という人間が書かずにはいられないお病気みたいなもので、そんなもの。でも、まったく読む人のことを考えてないわけではない。
 で、生活というのは、つまり、働くということは、これは、難しいね。
 具を作って人様の役に立つか、ずるこく人様の上前をはねるか、その2つだけ。
 これを書くということに繋げるというのは、ある面で原則論で言うなら、好きなことで食えるということでもあるのだろうけど、ま、難しい。実現が難しいというのではなくて、それをどう考えるかが難しい。
 幸運とか才能とかあるといいのでしょうけどね。
 ありますかね?
 努力とかで補えるものでしょうかね? ま、わかんないです。
 漱石とか読んでいて、それから大正、昭和、戦後の歴史を見ていると、文壇というか出版文化というが突出した時代だったし、それに対して金銭的なフィードバックが効いた。これが未だに残っているといえば残っている。が、これに被さるように電通ビジネスというか、テレビというメディアの広告っていう感じで資本主義の寄生虫ビジネスがうまく動いてビックマネーが動くようになった。
 現在はその第三の転換期なんだろうけど、金銭的な部分がうまく動かない。ビジネスモデルがうまくいかない。先進的な米国でもそうではないかな。PDF出版とか成功しているふうでもないし。
 平野啓一郎綿矢りさとか今後食っていけるのでしょうか? っていうか、彼ら自身がその名を出版ビジネスのメディア化されていることを知らないわけもないでしょう。で、不幸なことにその彼らが文学とはなにかをまったく直感しないわけではない。
 で、だ。
 この転換期というのは、まあ、そういう時代だよ。書くというのと食えるというのはそううまいビジネスでもない。作家になるかテレビで広告の上澄み飲むかのほうが道路はできている。で、それが仕事と思って進む人がいてもいいのではないか。
 ただ、書くという人間は、なんかもっと、どろっというか人間に本質的な何かなんで、そういう部分の人間というのは、最低生きて書いていればいいのだと思う。
 うまく言えないけど、人いうのは人なんで、べたに生きているわけで、書くというのはそのべた性のなかで本当は問われる。
 でも、なかなか書く人はそこがわかんないんだよね。
 もっと孤独なもんだよ。
 運・不運とか才能・凡庸とか、そういう差異をぶっとばすくらい孤独なもの。死と笑いの中間に爆走したりうずくまったりする何か。