読売社説 [日興賠償請求]「上場廃止の危機にどう対応する」

 日興は、大株主である米シティ・グループの傘下に入る方向で、シティと交渉している。仮に上場廃止を免れても、顧客や投資家の信頼回復が簡単には進まないことを考えれば、生き残りのために提携が必要になるとの判断だろう。
 資金力の強いシティの傘下に入れば、信用補完を受けることができる。
 日興をめぐっては、みずほコーポレート銀行など国内勢も、関係強化に関心を持っている。上場廃止問題がどう決着するかも、提携に影響しそうだ。

 あれ? これはもう既決では?

朝日社説 同時株安 グローバル経済の危うさ

 なんかもう少し気の利いたこと言うのかなと思ったら、なんか感動的にスカ。まあ大外しなネタでもないのだけど。というか、調整というか、中国バブルの警鐘くらいかなとは思う。もともとゲームだし。

Flavor Of Life 2

 詩を味わうにはバラードのほうがいいけど、音楽全体からするとシンセアレンジのほうがよいのではと思う。低音から微妙に短調に落ちていくあたり、モーツアルト的な悪魔の奈落的ゾク感がある。これはヒッキー自身の才能もだけどアレンジャーの才能か。
 承前⇒finalventの日記 - Flavor Of Life
 関連⇒極東ブログ: 恋という映像

この機会にfinalventさんの宇多田ヒカル評を見たいです。

 バラード編のプロモは見てます。オケのようすがいいですね。あと、ヒッキーのものすごい歌唱力。
 で、宇多田ヒカル評。
 ときたま彼女詩をふと思い出すこと多いですよ、詩がすごいよい。
 例えば⇒finalventの日記 - 最近なんとなく思い出す歌詞
 旋律に幻惑感があって作曲家としての才能もかなりすごいのでは。ただ、クラシック的なフレームはなさげ。
 これとか⇒finalventの日記 - なぜかCOLORSがよい
 ヒッキーのアレンジはけっこうサブリミナル。
 ちょい書いた⇒finalventの日記 - あ、宇多田の新曲
 ちょい⇒finalventの日記 - イチホゲLite2.0 中森明菜(40)だが…
 ちょい2⇒finalventの日記 - エキサイトの宇多田のあれ明日までか
 このあたりにそのまとめ⇒finalventの日記 - 音楽とエロと言えば、話は全然変わるのだが…
 恋の感触⇒finalventの日記 - 歳は取りたくないねというのは多々あるのだが…

 宇多田ヒカルの曲とか、おじさんの常としてというか、好きで、時たま、はっと、あれ、ジュラ紀における恋愛の感情とはこんなだったけとふと思うこともある、おーい、お茶。

 日本の女関連⇒finalventの日記 - 子供…
 評価例⇒finalventの日記 - はてなQ 宇多田ヒカル、2004全米ワースト6位に選ばれたのを知ってあなたは・・・(http://www.chottonews.com/archives/individual/2005/01/2005-01-03-0747-797.html)

ヒッキーの価値が米人に分かるのは十年先のこと。

 もうちょっと早いかも。
 詩のこと⇒finalventの日記 - 若者の日本語力が低下?

 若い人の、言葉、詩的なものの感性という点では、たぶん、いい例ではないのだろうが、宇多田ヒカルの詩は優れたものだ、これが通じるなら日本語はまだ大丈夫だぞとも思った。

 ULTRA BLUE評⇒finalventの日記 - ULTRA BLUEよいです

間違った生き方があるのか、本当の生き方があるのか、わからない

 ただ、関係のなかで人は「罪」足りえる。
 だけど、「罪」は許されうるかもしれないのに、その「罪」を逃れることで「愛」の可能性を失うこともあるのかもしれない。
 そこが生きることの難所のようにも思うし、そうした難所にある人をあまり他人事には思えない。
 でも、それは、語れば、欺瞞。人は、「罪」と「愛」の括弧を外して生きなくてはならないのだから。
 私はこうしたことを考えるときティリヒを思い出す。
 ティリヒはなぜこんな恐ろしいことを言うのだろう。

批判者になったり、反逆者になったりすることは、それほどむずかしすぎるなどということはありません。しかし、何かに対して妥協しない、自分に対してすら妥協しないで、しかも偶像礼拝に対する神の審きを告げることはたいへん困難です。その勇気ある行為が、苦難や殉教を招くかもしれないからというのではありません。失敗の危険を含むからです。私どもの意識のなかにある何かが、つまり罪責の感情といったものが、妥協を排して生きようとすることを妨げるからむずかしいのです。
 しかし、この罪責の感情すらも、私どもは自身の身に負わなければなりません。冒険をして、過ちを犯す者は、またその罪もゆるされるのです。危険をけっして冒さず、過ちをけっして犯さぬ者は、その存在において過ちを犯しているのです。自分に赦しが必要だなどとも感じてもいないので、ゆるされることもないのです。

 ティリヒの言葉はよく曖昧だと言われる。確かに彼の語ることはまったく逆の意味にも捉えられかねない。ティリヒの説教や神学を憎悪するキリスト者は少なくはない、あるいは神学者というガラスケースに収めて忘れてしまいたい存在だろう。
 文脈をすべて引用しないでいうのもアンフェアなのだが、ティリヒがここで「偶像礼拝」といっているのは、おそらく、「正義」なのだ。
 この世にあって正義として語られるものは、偶像なのだ。なぜなら、世はすべてキリストによって否定され、「あなたがたはこの世の者ではない」と告げられたのだから。ただ、こうした物言いも危険ではある。そこは、キリストと私の直接的なまず強い関係性があるからだ。つまり、人との関係性からではない。このあたりは、έκκλησία論とも関係するが立ち入らない。ただ、人との愛の関係のなかにキリストが立つとはいえ、人がキリストに先行することはないのだろう。
 ティリヒはその沈着なもの言いのなかで、静かに急速に人の感情を掴み出す、というか、その感情に掴み出されたとき、初めてその言葉が語れる可能性がある。この説教のなかでは、それは、まず罪責の感情というものだ。
 人は、自身が定義する、あるいは経験的に学んだ、罪責の感情に従って、倫理的に振る舞うようになる(実は偶像に服している)。経験というのは、あれだ、他者から「恥を知れ」といったものの累積などだ。あるいは「信仰」として語れるものだ(語られた信仰はキリストの関係にないとき偶像になる)。そして、人は、罪を犯さなくなる。失敗の危険を回避するようになる。そのとき、ティリヒはその人に、「あなたは赦しを必要だとしていないでしょう」と告げる。
 そこが難しいし、恐ろしい。
 人は若いとき、およそ赦しのために神が存在してほしいと願うような罪のなかに投げ込まれうる。だが、神は存在せぬかのように沈黙する。人は、赦しの希求をひりつかせながら、神の沈黙を不在として生きていく。
 その全てに先行して神の赦しが存在しえるのか? その赦しの事実に生きてきたか?
 それが今問われているから、ティリヒは新しい存在(new being)ということを言い出すのだが、これも理解しづらい考え方だ。ただ、これは、人は今という「時」によって倫理的に審かれていると近似的にパラフレーズできるかもしれない。

cover
時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか: 中島 義道
 スポイラーだが(本書を読むのであればこの結語を読まないほうがいいにはいい)。

ペテロが必死な思いで三度までもイエスを「知らない」と言ったように、あなたがある人を裏切ろうとする瞬間、騙そうとする瞬間、自らの卑劣な行為を自覚しながら「まあいいや」と呟く瞬間、自分の手を汚さずにことがうまく運び「しめしめ」と思う瞬間、他人の生命を犠牲にしても助かりたいと願う瞬間、他人を蹴落とすことを目指す瞬間、不幸を喘ぐ人を見捨てる瞬間、無能な人・不運な人を冷笑する瞬間、他人から称賛されて驕り高ぶる瞬間……<今>はすっかり剥き出しになっている。
 「あとから」はいつでも説明がつく。「じつはコウコウだった」と言葉を尽くして弁解できる。いくらでも謝ることも、激しい後悔にむせぶこともできる。しかし、そのとき、あなたはかけがいのない裸の<今>を生きており、「あとから」は消し去ることのできない絶対的な新しい何ごとかを開始しているのです。

Flavor Of Life 3

 どうでもいいことかもだけど。"Flavor Of Life"という変な英語がネイティブにどう響くのか。ヒッキーの場合、ネイティブの語感があってわざとやっているのだろうけど。
 Matter of Lifeではないけど、命に関わる、とか、余命とか、生存、とかいう感じ、なので、生きているっていう味わい、というのが近いか。
 ほいで、当然、このテーマが詩で日本語に展開されるのだが、該当するのは、たぶん、

忘れかけてた人の香りを
突然思い出す頃
降り積もる雪の白さをもっと
素直に喜びたいよ

 つうわけで、"Flavor Of Life"というのは、かなりたぶん、「人の香り」なんだろう。
 で、「人の香り」ってなにか? まあ、こりゃ野暮の領域になってくるわけだが。
 ここで、それがなぜ雪の白さと結びつくのか?
 またも野暮なんだが、「降り積もる雪の白さ」を喜べない「私」というのがある。そしてそうした「私」を告知するのが、「人の香り」。
 で、また、その「私」位置というのは、

友達でも恋人でもない中間地点で
収穫の時を夢見てる青いフルーツ
 
あと一歩が踏み出せないせいで
じれったいの何のってBaby

 中間地点であり、じれったさでもある。
 ただ、この詩の奇妙さというか、は、友達から恋人へというベクターではなさげ。つまり、恋人でフルーツが熟れるというふうな簡単な構図でもない。たぶん、そのじれったさ、切なさ、そういうものが、「人の香り」なのだろうし、「淡くほろ苦い」ものだし、その切なさの響きのようなものが曲と深淵を覆っている。
 いわゆる文学論的にいうと、「降り積もる雪の白さをもっと素直に喜びたいよ」は彼女の母であり祖母を暗喩しているし、そこに繋がる人の香りを暗喩しているとは言える。ただ、そう詩を見ていくのは、ちょっと方法論的に違う。
 切なさに戻ると、この切なさの存在の感覚から「人の香り」なのだが、どうも、それもそういう洗練ではなく、もっと、おむすび的なものに関係しているのだろう。
 それらがすべて歌になるとき、彼女としては、それが人に分け与えたいおむすびなんだろうと思う。
 ちょっと出過ぎた言い方をすると、すでに救いや救済の情感が切迫しているなかにそれが恋のように出現してくる何かだ。

すンばらしい人生をおくる三つのカギ

 今日はメタログもの。
  ヴェンタス・フィネラル著の「70年間で人生を変えよう」という本に、以下のような一節があります。
 すンばらしい人生に必要なものは、実はたったの三つしかない。
 
一、裕福な家系(過去)
二、幸運の連続(現在)
三、良き伴侶(目標)
 
 言いかえれば、こういうことだ。
 生まれたところがよくて、運がよくて、地雷女を踏まなければ、人生はすンばらしい!

闇黒日記の店仕舞ひ

 ⇒闇黒日記を店仕舞ひするの記 : 闇黒日記
 過去に何回か遭遇した。頭の悪い人ではないというか、彼はむしろ私の頭の悪さに辟易として去ったのだろうと思う。ま、多少は私の立ち位置を理解していたかもしれないとも思うがどうだっただろうか。
 彼の擬古性は極めて近代的だったと思う。キリスト教への造詣は日本近代のフレームにあった。おそらく西洋の文明の根幹への直感がないわけでもないのだろうが、私のようにそこに根こそぎ青春を食い尽くされた人ではなかったように思う。まあ、私語りをすべき文脈ではないな。
 というか、ざっくり見れば、闇黒さんも相応の歳になったということなんだろう。
 相応の歳になって、ちょっといかれてなければ、現在のネットに生存はできないだろう。