間違った生き方があるのか、本当の生き方があるのか、わからない

 ただ、関係のなかで人は「罪」足りえる。
 だけど、「罪」は許されうるかもしれないのに、その「罪」を逃れることで「愛」の可能性を失うこともあるのかもしれない。
 そこが生きることの難所のようにも思うし、そうした難所にある人をあまり他人事には思えない。
 でも、それは、語れば、欺瞞。人は、「罪」と「愛」の括弧を外して生きなくてはならないのだから。
 私はこうしたことを考えるときティリヒを思い出す。
 ティリヒはなぜこんな恐ろしいことを言うのだろう。

批判者になったり、反逆者になったりすることは、それほどむずかしすぎるなどということはありません。しかし、何かに対して妥協しない、自分に対してすら妥協しないで、しかも偶像礼拝に対する神の審きを告げることはたいへん困難です。その勇気ある行為が、苦難や殉教を招くかもしれないからというのではありません。失敗の危険を含むからです。私どもの意識のなかにある何かが、つまり罪責の感情といったものが、妥協を排して生きようとすることを妨げるからむずかしいのです。
 しかし、この罪責の感情すらも、私どもは自身の身に負わなければなりません。冒険をして、過ちを犯す者は、またその罪もゆるされるのです。危険をけっして冒さず、過ちをけっして犯さぬ者は、その存在において過ちを犯しているのです。自分に赦しが必要だなどとも感じてもいないので、ゆるされることもないのです。

 ティリヒの言葉はよく曖昧だと言われる。確かに彼の語ることはまったく逆の意味にも捉えられかねない。ティリヒの説教や神学を憎悪するキリスト者は少なくはない、あるいは神学者というガラスケースに収めて忘れてしまいたい存在だろう。
 文脈をすべて引用しないでいうのもアンフェアなのだが、ティリヒがここで「偶像礼拝」といっているのは、おそらく、「正義」なのだ。
 この世にあって正義として語られるものは、偶像なのだ。なぜなら、世はすべてキリストによって否定され、「あなたがたはこの世の者ではない」と告げられたのだから。ただ、こうした物言いも危険ではある。そこは、キリストと私の直接的なまず強い関係性があるからだ。つまり、人との関係性からではない。このあたりは、έκκλησία論とも関係するが立ち入らない。ただ、人との愛の関係のなかにキリストが立つとはいえ、人がキリストに先行することはないのだろう。
 ティリヒはその沈着なもの言いのなかで、静かに急速に人の感情を掴み出す、というか、その感情に掴み出されたとき、初めてその言葉が語れる可能性がある。この説教のなかでは、それは、まず罪責の感情というものだ。
 人は、自身が定義する、あるいは経験的に学んだ、罪責の感情に従って、倫理的に振る舞うようになる(実は偶像に服している)。経験というのは、あれだ、他者から「恥を知れ」といったものの累積などだ。あるいは「信仰」として語れるものだ(語られた信仰はキリストの関係にないとき偶像になる)。そして、人は、罪を犯さなくなる。失敗の危険を回避するようになる。そのとき、ティリヒはその人に、「あなたは赦しを必要だとしていないでしょう」と告げる。
 そこが難しいし、恐ろしい。
 人は若いとき、およそ赦しのために神が存在してほしいと願うような罪のなかに投げ込まれうる。だが、神は存在せぬかのように沈黙する。人は、赦しの希求をひりつかせながら、神の沈黙を不在として生きていく。
 その全てに先行して神の赦しが存在しえるのか? その赦しの事実に生きてきたか?
 それが今問われているから、ティリヒは新しい存在(new being)ということを言い出すのだが、これも理解しづらい考え方だ。ただ、これは、人は今という「時」によって倫理的に審かれていると近似的にパラフレーズできるかもしれない。

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時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか: 中島 義道
 スポイラーだが(本書を読むのであればこの結語を読まないほうがいいにはいい)。

ペテロが必死な思いで三度までもイエスを「知らない」と言ったように、あなたがある人を裏切ろうとする瞬間、騙そうとする瞬間、自らの卑劣な行為を自覚しながら「まあいいや」と呟く瞬間、自分の手を汚さずにことがうまく運び「しめしめ」と思う瞬間、他人の生命を犠牲にしても助かりたいと願う瞬間、他人を蹴落とすことを目指す瞬間、不幸を喘ぐ人を見捨てる瞬間、無能な人・不運な人を冷笑する瞬間、他人から称賛されて驕り高ぶる瞬間……<今>はすっかり剥き出しになっている。
 「あとから」はいつでも説明がつく。「じつはコウコウだった」と言葉を尽くして弁解できる。いくらでも謝ることも、激しい後悔にむせぶこともできる。しかし、そのとき、あなたはかけがいのない裸の<今>を生きており、「あとから」は消し去ることのできない絶対的な新しい何ごとかを開始しているのです。