毎日社説 特許出願 量から質への転換が必要だ
人工無脳的社説ってやつでしょうか。
読売社説 [談合企業]「もう枕を高くして寝られない」
日本企業の宿痾(しゅくあ)とされてきた談合を取り巻く環境が、激変しつつある。
まあ、概ねそうでしょう。小泉さんよくやったの部類では。
朝日社説 銀行決算 顧客への還元を急げ
焦点がぼけているのでなんとも。ちょっとディテールを忘れたが、国からの借り入れを返済しても総額では国は損というか税は食われたかではなかったか。ま、しかたないにせよ。
だが、立場の弱い顧客に押し売りしたり高すぎる金利を取ったりすれば、目先の収益は上がっても、長い目で見れば信用を損ないかねない。
これもいろいろあるのだが、基本的に銀行は雑魚を相手にしてないし、雑魚はつるんだ街金でちゅうちゅうだったはず。
大銀行こそ好調だったが、地方ではまだ足元が危うい銀行が少なくない。
ここが一番問題か。地銀の借り入れが長期なのが多いはずだし。
日経春秋 春秋(5/29)
嗚呼、野暮が止まらない。
▼「薄暑はや日蔭(ひかげ)うれしき屋形船」(高浜虚子)は日差しを避けながら船遊びできる喜びを詠む。虚子は肌を刺す紫外線に驚き、初夏を感じた。春夏秋冬とはいっても四季は判然と分かれてはいない。日本の1年は小さな季節変化の連続過程であり、だからこそ、微(かす)かな変化の瞬間をとらえ写生する俳句が発達した。
▼微妙な問題を議論するときに、便利な言葉がある。意見が対立する場面で「真理は中間にあり」と言い、国際会議で自分の立場を「コーシャス・オプティミズム(慎重な楽観論)」と語れば知的にも響く。が、実はともに特に考えがない場合も多い。薄暑を映像のように表現できる俳人の感性を持てれば、と思う。
OTZ
この馬鹿ちん、写生=スケッチと見ているわけだ。まあ、そう見られてしかたない面もあるので、馬鹿ちんというのもなんだが。
⇒子規の写生論
子規の写生論は、これまでにも多くの誤解を引き起こしてきたのである。詩人伊東静雄は、芭蕉の象徴主義と子規の写生主義を対比させて、子規批判の論を展開させながら次のような大胆な結論を引き出している。
彼の「写生」は、句の表面に「主観を直叙」することをさけようとすることから出発して、遂にはそれにとどまらず、芸術が芸術たる所以の芸術的直観までも排して、全然没主観的な機械的形象模倣にまでおち入つて行つたのである。(子規の俳論)
この文は、子規自身が語っている次の箇所を読めば、明らかに誤解であると気づくであろう。
で、子規自身はこう(↑の引用にあるが)。
文学に於て我が美とする所はある人の説く如く理想をのみ美とするに非ず、写実をのみ美とするに非ず、将た理想的写実又は写実的理想をのみ美とするにも非ず、我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所も亦此等の内に在り。
我は宇宙到る處に美を發見せざること無く又不美を発見せざること無し。(我が俳句)
この問題は、小林秀雄も講演で言っていたが、「生」を「写す」の「生」概念にあるわけで、視覚映像のような比喩で心象の映えのありかたを問うているわけで……。
まあ、とはいえ、子規の写生論は純粋意識に映ずる生という感じでいろいろあって……。
⇒正岡子規 - Wikipedia
短歌・俳句の改革運動を成し遂げた子規であるが、その方向性がいたずらに写実、現実密着、生活詠中心であったために、近世期以前の和歌・俳句の持っていた豊かな味わいを一方的に切り捨てる結果に終わってしまったという批判がある。特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多い。また俳句における子規の後継者である高浜虚子がいちはやく写実主義を否定し、「花鳥諷詠」へと方向転換して実質的に子規の俳句観を裏切ったことを見てもわかるように、子規の理論にはいたずらに過激であるだけで文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もある。功罪相半ばする文学者であるといってよい。
ただしこれは子規の生きた激動の明治期という時代の空気、歴史の流れを考えた上で彼の評価を行うべきとの意見もある。
まあ、現状は概ねそんなところ。
ネットなんかでは理系は利口ってかで文系はおばかみたいな感じではあるが、文系的な思考というのもそれなり馬鹿にしたものではない、っていうか以下略。
不覚にも又ワロタ
⇒思想誌:創刊ブーム 「批評空間」終刊の空白埋める?−学芸:MSN毎日インタラクティブ
昨今の共謀罪や靖国問題を巡る議論を見ても思うが、ある意味、今ほど「左翼」の存在が重要なときはない。だが、冷戦終結で左右の枠組み自体が崩れ、古い言い方をすれば世界的な「右傾化」が進んでいる。今は、産業革命以降の西欧文明が培ってきた思想的座標軸自体が失効した時代と言ってもいい。
そんななか、旧来の左翼的旗印に頼る機会すらなかった30代以下が、こうした雑誌を出すのは正常な動きとも言える。ただ、どうも思想の過激さを競う方向に行きがちな点が気になる。
今なすべきは、安易な思想の紹介や実践ではなく、西欧文明の行き詰まりを根底から考えて「現代のビジョン」を作ることだ。それは、ドイツ観念論の成立ぐらいスケールの大きな取り組みだろう。こうした作業を地道にやるしかないことも知っておいてほしい。
ウッキー
「西欧文明の行き詰まり」かよ。
小熊英二あたりが、戦後思想のなかの吉本隆明を滅菌・スルーしたので、振り出しに戻るみたいな感じっていうか(鶴見俊輔はやんわりとそのあたりを諭していたのだが)。
吉本の総括がきちんと出てこない点も問題だが。っていうか、吉本終了万歳っていうことでしょうかね。あはは。じゃ、ねーか。総括はあるにはある。橋爪でも中沢でも、その前なら竹田にも。ただ、それらの言葉が現在の言葉と断層を起こしている。
というか、常に吉本が先頭に立ちすぎて、その解釈者たちが老人になって、し・も・た。
ポイント的には、60年代安保(+革命の可能性)と70年代安保(+市民主義)の落差だろう。エポック的にはハンガリー革命(動乱)と日共の問題から新左翼が出てくるあたり。明確な構図はベ平連と吉本主義の対立みたいだが、小熊イズムはそのダイナミズムがすこーんと消えている、ってか、遡及してハンガリー革命の考察も抜けている……と思うが最近はなんか言っているのかな。
⇒ハンガリー動乱 - Wikipedia
意外と↑がよく書けているじゃん。ただ、そこから東欧革命への経緯がうまく、日本の、本来の左翼思想のなかで咀嚼されていないというか、振り返るに、ここで吉本隆明はある程度仕事していたのだが。
⇒東欧革命 - Wikipedia
いわゆるリベラルにしてみると、この流れは、民主化、とかになり、ハンガリー革命をスルーした小熊イズムなんかとぬるぬるで民主化と一緒になったら、酸鼻かも。
あ、ついでに。
ドイツ観念論とかいうなら、きちんとカント嫁鴨。
⇒ドイツ観念論 - Wikipedia
なおカント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。
ぶっちゃけ、いわゆる思想史的なドイツ観念論から出発するのではなく、カント再読のなかでカントの豊かさとその可能性の再認識から、ドイツ観念論からヘーゲル・マルクス的な流れを再考しないとあかんのでは以下略。
先生、覚えています!
どうして最近のマックには MacPaint が付いてこないのだ。お絵かきソフトはいくらもあるらしいが、おいらには難しすぎるのだ。MacPaint でないと困るのだ!
まったくそうです!!! レイヤー不要。ビットデプス2のみが吉。ビルアトキンソンを米国大統領に!!
しかたがないので⇒Kids Domain Downloads - Kid Pix
動きます。ばっちり。
「予言者」が「預言者」の誤字でなければただの馬鹿
誤字脱字については他人のことを言えた義理じゃないけどさ。それと、誤字とわかったら、コソーリ直しておくと良いよ。このエントリ削除依頼も軽くお受けしますし。
これ⇒世に倦む日日 : 預言者のオーラル・パフォーマンス − 変革主体二論の説得力
私は年を追う毎にマルクスの説得力から離れ、ウェーバーの説得力に傾いている。被支配階級による革命という図式ではなく、予言者と中間層による現世の合理的改造という構図に納得を覚える。
予言者と中間層。結局はこれしかない。
(1)預言を語る力をそなえている者。特に古代イスラエルで、神の召命を受け王政を厳しく批判した民族的指導者。
(2)イスラム教で、ムハンマドの称。
(名)スル
未来の出来事や未知の事柄をあらかじめいうこと。また、その言葉。
「将来を―する」
三省堂の字引に予言者はなし。
ちなみに、「現世の合理的改造」なんて、プロ倫には書いてないよ。ってか、このおかたにプロ倫を問うのは野暮すぎ。
追記
ネット・ストーカー的な意図はまるでないのだけど。後半は修正されたようだけど。
預言者と中間層。結局はこれしかない。すなわち、麻薬には絶対に手を出さないという最低限の禁欲倫理を保持できるウェーバー的中間層。
前半はまんまは意図的?
私は年を追う毎にマルクスの説得力から離れ、ウェーバーの説得力に傾いている。被支配階級による革命という図式ではなく、予言者と中間層による現世の合理的改造という構図に納得を覚える。
それと。
まあ、馬鹿馬鹿いうのも下品なんだが、「麻薬には絶対に手を出さないという最低限の禁欲倫理を保持できるウェーバー的中間層」という表現は、全然ヴェーバーが読めてない。
「禁欲倫理」っつう表現がなんだかななんだが(ってかドイツ語でこれはなんて言うのかわかんね)、ようするに、「麻薬を吸わないのが禁欲」って言いたいわけですよね。
で、ヴェーバーの禁欲っていうのは、オナニーしたいけど今日はしない、っていうのじゃないんですよ。
これは、Aktive Askese 。日本語では行動的禁欲と訳されることが多いが、このAskeseというのは、禁欲というより、日本語では「専心」に近い。「修練」としてしてもいいかもしれないけど、世俗の行動をすべて特定目的のために統率することを指すのですよ。「最低限の禁欲倫理」とか、ヴェーバー学ではありえないってば。
追記
その後、もう一つの誤字も訂正となっているようです。
ってことで、誤字だったつうことで。ま、それはそれでいいでしょ。
このエントリについては、履歴っつうことで、削除依頼がなければそーゆーこともあったよね的に残しておきます。
誤解されるかもですが、攻撃とかの意図はないですよ。
みなさん、きちんと、マックス・ヴェーバーのプロ倫を読みましょう。じゃ。
言うも野暮だがマルクスは革命の担い手をプロレタリアートとしたのは
生産手段が奪われているから。
で、そうではないの典型は、農民。
言うまでもないが、プロレタリアート革命の障害は生産手段を持つ農民。
だから、スターリンは農民を殺しに殺した。
資本主義によって農民が労働者となることで革命の可能性、っていうか、歴史の進展の可能性が生じる、というのがマルクス=エンゲルスの思想。
マルクスのいう階級(クラス)というのは、ピラミッド型した権力図みたいなものではなく、OOPで言うクラスと同じ。
資本家というクラスがある。
プロレタリアートというクラスがある。
農民というクラスがある。
つうこと。
下部構造が上部構造を規定するというのは、上下というより、クラスとコンストラクタの関係。コンストラクタのなかに社会に抽象・表出される行動規範の意識構造が書き込まれているということ。意識とはメソッド。
激しく哀悼 米原万里死去
⇒作家でロシア語通訳者の米原万里さんが死去 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
作家で、ロシア語通訳の第一人者としても活躍した米原万里(よねはら・まり)さんが25日に死去していたことがわかった。56歳だった。
⇒asahi.com:作家の米原万里さん死去 テレビ番組でも活躍 - おくやみ
泣ける。
先日、週刊文春の「癌治療本を我が身を以て検証 その三」で闘病のようすを読んで元気そうだなと思ったのに。
⇒米原万里 - 書評Wiki
オリガ・モリソヴナの反語法(集英社文庫) |
岡田眞澄、死去
⇒俳優の岡田眞澄さんが死去 - 芸能ニュース : nikkansports.com
⇒岡田眞澄 - Wikipedia
父は日本人画家の岡田稔、母はデンマーク人。母親は在日アメリカ軍の翻訳家として活躍していた。ちなみに、コペンハーゲンの人魚姫像のモデルは岡田眞澄のおばにあたる。