1.III Atonement and Miracles

 ACIMにおける贖罪(Atonement)は、キリスト教またはその神学のそれではない。それどころか、キリスト教を訂正するためにこの言葉用いられている。ACIMにあっては、罪はそもそも存在しない。よって、それゆえの贖罪もまた存在しない。ゆえに、ACIMにあっては、罪がなかったことを示すことが贖罪となる。イエスが十字架に掛けられ復活されたのは、彼を罪に定めることが訂正された、というロジックである。言うまでもなく、これはもうキリスト教ではない。が、キリスト教をそのように訂正することができるという意味ではある。
 T-1.IIIを読んで、あらためて驚くのだが、明示はされていないが、イエス・キリストが兄としての位置を明確にしていることだ。神の子の本質が純化されているということでもあるのだろう。"I am the only one who can perform miracles indiscriminately, because I am the Atonement. "T-1.III.4
 繰り返すが、イエスが贖いゆえに我が主、という論理はここにはない。あくまで神の子の兄ということだ。
 この節にはまた"The impersonal nature of the miracle"という言葉が3度出てくる。「奇跡の非個人的性質」と訳されているが、意味合いとしては、奇跡とは非個人的であるということだ。個別の人に帰属しないという意味である。ロールズの「無知のベール」にも近い。
 レッスン中、なんども「愛」ということを考えた。私は自覚としては誰に愛されたこともなく育ってきた。もちろん、親や先生なりにはそれなりの「愛」の意識はあったのかもしれないが、私は、その「愛」の対象であり、審級であり、つまりは愛と言えるものではなかったように思う、愛に安らぎはなかったのだし。そして恋愛もまた愛ではなかった。なんて惨めな存在なのだろう、自分は、と思ったが、これが人の普通の存在であるということまで理路はたどれた。愛されていると思っている人もまたある意味、幻影のなかにいるだけである。では、愛とは? というところで、小学校1、2年生のときのI先生を思い出した。夫を戦争で亡くした後家さんだった。彼女は特に私を贔屓してくれたわけでも配慮してくれたわけでもなかったが、決定的に公平だった。公平ということが愛なのだと半世紀してしみじみと心に染みて泣けた。愛というものがあるなら、公平と同義であろうと思う。ここで愛というのは、"The impersonal nature"なのだというふうに自分は理解する。
 以上、なんか、あれですね、いかにも新興宗教みたいになってしまった。テキストの扱いもモルモン教みたいになって、ますます、僕は異端かあ。
 ACIMのテキストは難しいと言われるが、第1章でこんなテーマがいきなり出てくるというのもどうかとは思う。普通わかるわけないでしょと思うが、そういう思いに奇妙なおごりをまぜないように。人はどの道を辿ってもかまわない。ACIMはほんの数名のためのものかもしれないし、何千年とかけて人類が理解すればよいものかもしれないのだから。