362: Lesson

This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace.
 
 レッスン362から364までは、黙想というか個別のレッスンは与えられていない。一年間、私の場合は一年三か月ほどかかったことになるが、レッスンを総括する意味合いもあるのだろう。
 ことさらにそれを意識しているわけでもないが、この間、レッスンを少し振り返ってみたいと思った。
 きっかけは、「奇跡講座入門」の再読である。

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奇跡講座入門―講話とQ&A
 久しぶりに読み返してみると、以前よりよくわかる。その深みにおいてわかる実感があった。また、率直にわからないところ、まだ理解できていない部分も見えるように思えた。
 レッスンをほぼ終えて、率直に言って、自分はこのレッスンで変わったのかというと、わからないと思う。率直に言って、世の中の人のいうような救済の感覚のようなものはない。それでも何かは決定的に変わったという感覚のようなものがある。
 先日、「心の中の深い傷 - finalventの日記」というのを書いて、想定しないブクマがついていて驚いたのと、これを「毒吐き」のように受け取る人がいるのだなとも、久しぶりに異質な他者というものに出会うような感覚もあった。
 「奇跡講座入門」を読み返してみると、ああ、これだったかというのがわかる。あまり合理化してはいけないが、こうしたつらさは、レッスンの、普通のプロセスでもあるようだ。
 話はずれて。二つのことを思った。一つは、これまでワプニックも書いていないし、ACIMにも明確には書いていないが、いや、ワプニックは別書でヒントのように書いているが、赦しを他者の攻撃の好機のように差し出すのはその人を傷つけるのと同じ、ということだ。偽りの赦しというか、フロイトのいう道徳的マゾヒズムのように「赦し」が機能する倒錯は違うのだろうということだ。
 攻撃者は当然ながら気がついていないのだが、他者を攻撃することで自身を損傷していく。これを傍観しているうちはいいのだが、攻撃される側に回るとき、自分の経験でいうとネットをやっていると実にしばしばそういう場面に遭遇するのだが、他者の攻撃をどう赦すかというのが、切実に問われる。先日も、これは行きすぎだろうなという大量のコメントを貰って閉口したし、ブログにも日々罵倒と愚弄の匿名コメントが寄せられる。基本はかまわないと思う。こうした問題では何が正しいかは、神に任せればいいし、そう思えるなら、社会的な許容であれば、罵倒と愚弄を普通に受け止めていていいと思う。
 それが自身の道徳的マゾヒズム心理と混線するような側面がありそうに思えた。自分を傷つけてまで赦すことで、自分を聖化するような心理である。ACIMには明言されていないように思うのが、日本人のある精神志向のある人間にとっては、この「マゾヒズムとしての赦し」とでもいうようなものは非常に危険なものなんだろうと思う。ACIMの論理でいうなら、それは他者を密かに攻撃しているだけなのだ。
 もう一つ、関連して、「破壊するための赦し」を思い出した。ちょっと勘違いしていて、これが先の入門書に書かれているかと思った。勘違いしたのは「特別な関係」との関連だった。「特別な関係」はワプニックの指摘で言うならレッスンには書かれていない。レッスンの実感からすれば実践の過程で内的に突き当たりはする。
 「破壊するための赦し」は広義に「マゾヒズムとしての赦し」を含むだろうが、同じと断ずることはない。また、「破壊するための赦し」は、ACIMのテキストに明示的は出てこない。「祈りの歌」に表れる。潜在的にはテキストにもレッスンにもあるだろう。
 「破壊するための赦し」はワプニックによるヘレンの評伝に少し含まれているが、今見返しても明瞭ではなかった。
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天国から離れて
 このあたりで「入門」と関連して少し思うのは、自分はキリスト教からは離れてしまったように思う。そこをあまり強調する必要はないが、キリスト教は多面的ではあるが、それでも贖罪と復活についてのACIMの考えを含み込むキリスト教神学はないように思える。ACIMにおいて罪が許されたというのは罪がそもそもなかったという真理(知識)の直覚である。結果的にキリスト教の贖罪を非時間的に整理すればACIMと同構造になるが、そうした神学的な思索は、キリスト教徒にもACIMの学習者にもさほど益はないだろう。
 それと、また、奇妙な孤独の位置についた感じもする。キリスト教ですら日本人は少ない。またACIMを信奉すると公言する人はいわゆるスピリチュアル系の人が多く、出版されているものやネットで雑見するものからは、あまり共感できない。幸いFACIMはワプニックの薫陶にあるせいか安心して見ていられる。
 こうした心理は、おそらくカルトと同型だろう。ああ、自分はカルト信者かと苦笑したくもなるし、ネットで書けばまた「マゾヒズムとしての赦し」の誘発にもなるだろう。賢いことではない。
 孤立感がないわけではないが、孤独というのでもない。まあ、こんなものかなと思う。
 ヘレンはACIMはこの世界の5、6人に向けて書かれたものだと理解していたようだ。それに自分が選ばれたといった奇っ怪な自己幻想はもたないが、そのくらい理解しづらいものではあるのだろう。
 そしてそれを理解することは「必須」ではない。ACIMのAは、不定冠詞のaである。その道に進む人もいるだろうというくらいのものだ。これはマニュアルでも明示されている。ACIMは「イエス」を理解しなくてもいい。
 ただ、なんというのか、どこかに私の友だちはいる。こういう言い方も誤解を招きやすい。私がその友だちを判ずるわけではないから。ただ、結果的に、私はその未知の友愛のなかに掬いとられている(完了の相)という思いはある。