禅と悟りと修行

 先日、といって、もう一週間前になってしまったが、「仏性」について書いた。はてなに書くとブコメが付くことを失念していたので、最近にしては比較的多くブコメがついて驚いたというか、懐かしかった。同時に、しかたないだろうなとは思った。これはひどい系のブコメを残されたかたの「仏性」理解は、愚かさを表しているのでなければ、天台系のものだろうし、日本の仏教の大半がそれだし、曹洞宗ですら、正法眼蔵のテキストをきちんと読んでいるようにも思えない。かくなるうえは、罵倒されてもしかたがないだろう。
 禅は、禅宗から問われるようになった。いや、以前からそうかもしれない。大きな区切りで見ると、臨済宗曹洞宗がある。どちらも禅を標榜する。が、率直に言って、臨済宗の「禅」は私には、基本どうでもいい。公案もいろいろ学んだ。文学として面白いし、正法眼蔵を読めばわかるが、禅の主題も関わっている。が、いわゆる禅で公案を考えるようなものは、私にはまったく無縁であるし、どうでもいいと思っている。半面、曹洞宗も「只管打坐」自体が方法化しているように見える。それも、どうでもいいことに思える。
 道元も「悟り」ということを言うし、「修」するということを言う。これを、坐禅という修行を実践することで「悟り」に至ると考える人が後を絶たない。もちろん、そう考えてもいいし、一生そうやって修行したり、悟りなるものを得たりしてもよいのだろう。
 道元を学んだ私にしてみれば、そのような修行にも悟りにも、なんの関心もない。
 悟りというのは、私たちがこの瞬間に生きる実相それ以外のものではない。人が過去も未来も切り離して(前後際断して)、今に向き合う、その完全なありかたである。これは、大宇宙の実相だの、神秘などとはまったく関係がない。ただ、今、ここに存在しているだけのことである。
 そして過去と未来を切り離して今ここにいる仏の姿を現しているのが禅であり坐禅である。それ自体が仏であって、そのあり方を生きている状態が「修」ということである。万巻の書籍を読むのではなく、今過去も未来も切り離して生きていることが「修」である。いつの日か悟りなるものを得るために修行しているということではない。
 それでも、苦のなかでどうするかという思いはわきおこる。道元は言う。「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘れるるなり」。これは自分を忘れて、今現在に集中・没我であるというふうに読まれてもよい。が、もっと単純に、己の思いというのを、忘却の雲のなかに投げ入れることだとしてもよいだろう。
 不可知の雲は忘却の雲との対応にある。不可知の雲に入るには、人は忘却の雲に覆われなくてはならない。過去の思いを忘却の雲のなかに投げ入れるのである。
 禅といい、只管打坐というのは、ただ、座り、諸念を追わず、そのまま忘却の雲のなかに投げ捨てることである。
 悟りを得たい。お金を得たい。あの恋を実現したい。それらの思いが坐に起きるなら、そのまま追わず、忘却の雲に流すだけである。そして、自己を忘れるのである。それだけのことだ。
 道元はその先も語っているが、日常生きる上で修することはそれ以上のことはほとんどない。
 坐禅は瞑想ではない。自分にわき上がる諸念をただ、静かに忘れていくだけのことである。
 「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」とは、瞑想でも思考でもなんであれ、何かを追求してけば、その追求者の自分がより強固な実体のように思われるだけということだ。しかし、この自分の思念もまた、無常なのである。今を離れては我もまたない。諸行無常諸法無我、つまり、仏性なのである。
 
追記
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