不可知の雲と黙想

 最初、不可知の雲を読んだときは、その深淵さもだが、黙想の技法への関心もあった。端的に言えば、マントラと思念の技法である。が、そのあたり、今回はあまり関心は向かなかった。不可知の雲の著者は、むしろ、メカニカルな技法をできるだけ避けようとしている、というか、あくまで精神性の付随として黙想を見ていることがわかったし、考えてみれば、黙想の秘密はそこにあるのだろう。つい、グノーシス的なものも連想したが、そこはむしろ、「愛」の思いの思い方といったいった点にあった。
 Acimと似ている面とそうでない面もあるが、それはそれでかまわないようにも思えた。
 というか、かなりシンプルに読めてきた感じはするが、それでも、中世哲学の根幹みたいな部分は、率直に言って歯が立たない感じがした。
 章タイトルがオリジナルにあるのかわからないが、今回は、章タイトルがかなり内容を簡素に表現していることに気がついた。
 Evelyn Underhillは著作権が切れているので、これをベースに翻訳したい気持ちするが、それだけの力量が自分にはない。では、抄訳のようなものをとも思ったが、まさにそれこそが、著者が禁じるものだった。
 英米では、ここからCentering Prayerとして再評価されていくし、それはそれで簡素に本質をついているのだが、Thomas Keatingなどのようなありかたより、なお、素朴に、黙想はありうるようにも思えた。
 まあ、なによりも、黙想を意識のもちかたのように理解していたのは、間違っていたなあという感じがした。よくわからない点でもあるのだが、重要なのは、不可知の雲というより、忘却の雲と言ってもよいのだろう。まさに、そのあたりで、Centering PrayerのCenter感覚とは違うようにも思えた。
 
 各種の訳について⇒Voice in the Wilderness: Different Versions of the Cloud of Unknowing
 オリジナル⇒The Cloud of Unknowing