163 : Lesson

There is no death. The Son of God is free.

Death is a thought that takes on many forms, often unrecognized. It may appear as sadness, fear, anxiety or doubt; as anger, faithlessness and lack of trust; concern for bodies, envy, and all forms in which the wish to be as you are not may come to tempt you. All such thoughts are but reflections of the worshipping of death as savior and as giver of release.
死は思想であり多様な形態を取るが、しばしば認識はされない。死は、哀しい、恐怖、不安や疑念、あるいは、怒り、無信仰、信頼の欠如として表れる。他にも、健康や要望への配慮、羨望としても表れる。死は、あなではないなにかになりたいと願うあらゆる形態で、あなたを誘惑するためにやってくることがある。そうした死の潜む諸形態は、死を救い主として、死によって解放が得られるとして、死をあがめていることの反映でしかない。

 古風な英語なんで意味がとりづらいが、ものすごいことが書かれている。ハイデガーの思想を鉄槌で打ち砕くようなものだ。しかし、これはまさに椎名麟三山本七平が言っていたことに似ている。私たちは、死を獲得することでこの世を支配するのだ。死を恐れなければという意気込みで、この世を支配する。Acimはそれを誘惑と見抜く。このあたりには聖書の、イエスの誘惑を徹底的に読み抜いた思想がある。別の言い方をすれば、絶望が死の賛美としてそのような機能をしていることを暴いている。

The frail, the helpless and the sick bow down before its image, thinking it alone is real, inevitable, worthy of their trust. For it alone will surely come.
弱さ、絶望、病気は死の姿の前にひれ伏す。死だけが真実であり、避けがたく、信頼に値するとと考えているからだ。なるほど、死は確実にやってくる。

For it will come with certain footsteps when the time has come for its arrival. It will never fail to take all life as hostage to itself.
死は最期に確実な足取りでやってくる。死はしくじることなく、命をその人質として、命を奪い取る。

 そのあと、Acimはその死を主が打ち砕いたと続く。そこは省略し。

It is impossible to worship death in any form, and still select a few you would not cherish and would yet avoid, while still believing in the rest. For death is total. Either all things die, or else they live and cannot die. No compromise is possible. For here again we see an obvious position, which we must accept if we be sane; what contradicts one thought entirely can not be true, unless its opposite is proven false.
どのような姿を取るにせよ死をあがめることはできない。好ましいとは思いもしないし避けたいと思っている死の相貌のどれかを選び取ることもできない。全て物がは、死ぬか生きるかしかない。妥協はありえない。私たちに理性があると認めるなら、私たちは明白な立場にある。人の考えに矛盾があるなら、それは真実ではなく、その反対が真実なのである。

 死と生がともに真実であることはない。であるなら、その理性が、Acimの真理を導く、ということで、Acimは徹頭徹尾、こうした議論からできている。信仰や信念ではなく、真実知から演繹されて、この世界と死を棄却してしまう。そして、そのような存在として神を描いている。
 Acimを学びながら、これはヘレンの妄想なり、別人格なのだろうとしか思えないでいたし、実際、今でもそう思っているが、おそらくワプニクもそう考えているのだろうが、ヘレンの頭脳を借りてやはりグノーシスが顕現したと見てよいのだろう。これはよくオカルト的に解釈される隠された知としてのグノーシスではなく、徹頭徹尾、なにも隠されていない。ヘレンにこれが顕現したのは不思議だし奇妙なことだが、言説は首尾一貫した堅固な理性でしかない。