157 : Lesson

Into His Presence would I enter now.

 これは復活ということなのだろう。これをうまく言えないのだが、私の人生にはずっと復活のイエスがいる。それが信仰なのか皆目わからない。守護霊のようにいるというわけでもない。そしてそれはいつもむかってくる。自分の悲惨さ醜悪さそういうものが極まる一点から彼は静かに接近してくる。どのような虚飾を覆っても救われない死の定めの向こうから、彼は静かに接近してくる。もっとも小さき者として、もっとも弱い者として。普遍・根源なる人として。
 acimの概念はそれとは違って、福音派のように勇ましい。自分の思いとの差は、おそらく私は復活のイエスすら疑念を持ち続けているからだ。これもまた自己防衛の詐術ではないかと疑っている。
 acimのワークブックを読みながら、もうダメだ、ついてけないという感じもあるが、ふっと啓示というのでもないか、そういうことだったのかとわかることがある。acimがいうLifeというのは「生命」ではなさそうだ。あるいは西洋の総体がLifeとしているものは、日本人が考えているのような「いのち」ではない。むしろ、Lifeというのはbeingそのもののようだ。
 アリストテレスというかハイデガーというか、れいの道具存在について若い頃奇妙な違和感を持ったのだが、どうも道具存在というのは存在とは違う。どうも彼らは根底的存在を認識や人の意識から分離している違和感が先行して世界や諸存在を見ている。顧みて、日本人の世界観は、道具存在もまるで針供養のようにアニメートな存在として見ている。
 トルストイの「人生論」を読んだときも思ったのだが、どうも彼らは、「人生」という概念は持っていない。いやないわけではないのだが、どうも私たちは「人生」を物語りとして見て、また世界をも物語として見ている。そういう人生ではない、now-beingという向き合うなにかが存在基底にあり、それは「生命のように表れる」ということで、生命とは異なる。
 「あなたは存在する」というのはそう問いかけられる何かとの強い関係のなかにあり、その問いかけの究極存在から離れたとき、人もまた「物」存在になってしまう。
 acimを読みながら、このあたりは、visionとも関連している。visionというのは偽りであり知覚もあるのだが、この感覚はデカルトも覆っている。日本人は、visionというか感覚の真正性が真実在であるように思っている。acimはそうは語っていない。
 まあ、ごくごく基本的な概念が、どうもまったく異なるのではないか、それでいて、どうも神は臨在するという以前に、その真偽の命題以前に存在するなにかであるというのは、なんというのか、震える。