Lesson 54

復習
 
 ワークを聞きながら、世界というのは身体を含むのではないか。キリストのヴィジョンというのはキリストの身体感性を含むのではないかと思った。すると痛みや苦しみにもその栄光が与えられるのではないか。たぶん、そうなのだろう。ヴィジョンと世界というとき、「私」に対置しているのだが暗黙にその「私」は私の身体でもあった。
 acimの論理では、世界、それは本来無であるのにあるかのようにあるのは、身体を通して感受されるからで、これをundoするためのキリストのヴィジョンが与えられる。それは身体にも及ぶのだろう。
 ただ、率直のところ、これは十字架の苦悩をも打ち消す。テキストではたしか十字架の苦悩は打ち消されていたのでacimのロジックとしては正しい。ただというのは、これは仮現説異端の特徴的な教説でもあり、ちょっと受け入れがたいものはある。それでも、十字架の苦悩がないなら、私の身体の痛みもないということなのだろう。このあたりは思いがぶれるところだが、たぶん、acimのロジックにひかれていく。
 昨晩、The cloud of unknowingを読んでいて、"god"と"sin"のprayerの大切さを読んでいて、"sin"はacimでは否定されているのだというあたりにいろいろ思いをはせた。現状の結論からいえば、acimのseparationなのだがと、ちょっとネットのソースを見ていると、事実上そう明示してありますね。なるほど。ただ、acimはsinの響きを避けたのだろうと思う。そのわりには、Atonementは強調される。逆にいうと、Atonementからsinが指示されているけど、sinという響きは避けたということなのだろう。
 書いていてなるほどと思うとともに、The cloud of unknowingとの協調した響きが不思議に思う。