48 : Lesson

There is nothing to fear.
 
昨日のワークもかなり困惑した。これはもう理解できそうにないなと思ったら、今日はこれである。心が見透かされているようにも思う。これはというと、acimのロジックどおりだが、やはり抵抗がある。
 昨日の解説だが。

The recognition of your own frailty is a necessary step in the correction of your errors, but it is hardly a sufficient one in giving you the confidence which you need, and to which you are entitled. You must also gain an awareness that confidence in your real strength is fully justified in every respect and in all circumstances.

 謙虚に自分の弱さを認めるのは階梯としては必要だが十分ではないという。私は自分の弱さを見つめたらそこから逃げないで生きていたらいいやと思う人なので、それ以上の強さは欺瞞だから踏み出さないでいた。しかし、acimの言葉は強い。この話は、ヘレン自身とイエスとの葛藤でもあったようだった。
 今日のワークをメンター本はどう捉えているかと見ると、"There is nothing for me to fear."となっていた。恐れを自分にだけ特定していることを強調していた。それ以上の補足はなかった。
 acimの指摘でぎょっとするのは、恐れは自己への信頼から生じるということで、素直に弱さを見つめるというのが、それ自体自己欺瞞であったのかということは思う。
 Kは恐れ(恐怖)は思考の分離からは起こるとしていた。つまり、それを自己内のなにかを遠隔化するためだ、と。死すらもそれに含めていた。それは理知的にはわかる。そして、思考の分離ないようにawareすることというのでそこに私は留まっていたが、acim的なKnowlegeでいえば、まず恐れが存在しないから始まる。そしてその先はknowを通して聖霊に委ねることになるのだろうが、つまり、knowということだな。
 日本語でこのあたりの心情がどう構成されるのかうまく咀嚼できない。