41 : Lesson

God goes with me wherever I go.
 
 先日ツイッターで、イエスは律法の完成者であり聖書の示す律法を理解するには膨大な知識が必要だみたいなのがあって、まあ、自分もそう思うこともあるのだけど、ご苦労なことだなとも思った。
 イエスの律法はごく単純なのである。主を愛すること、他者を自分のように愛すること(許すこと)。なにもacimを持ち出さなくても、普通に福音書を読むだけでもくっきりとわかるし、そしてそのことは、イエス安息日の主として諸規定をやすやすと破ったことや、ライ病者や売春者に接していたことでもわかる。それは言葉だけでなく、行いとしても示されている。
 聖書の総体が示すこと(イエスが律法の完成者であること)はその意味ではごく単純なことであり、その単純さを避けるための複雑さというのは、自分で作る苦悩ようなものにすぎない。
 今日のacimのworkは単純と言えば単純だし、聖書のどこからも響く普通のことのようにも思える。アブラムにもエリアにもパウロにも。ただ、その深みと理解は難しい。
 メンター本を見ると、"God is with me, wherever I perceived myself."となっていた。なるほどこのほうがより正確に捉えているというか誤解を減らすように書かれているなとは思った。威厳というか格調はないけど。
 これは、ティリヒのいう「勇気」というのとも近いのだけど、acimで圧倒されたのは、神が存在するというのは神が万能であるということで、そこはなかなか自分には受け入れがたいところだった。神の万能性といったものは稚拙なファンタジーとして随分昔に切り捨ててしまっていた。
 だが、そうではない。あなたが弱いとしても神は強いというのはパウロの啓示にもあるが、とても大切なことでもあるし、acimそれ自体の強さになっている。acimのイエスは自分の教説の強さにまったくの疑念がない。
 ワークは3.11にはじめた。悲惨な世界に自分が絶望した記念日であり、1年を空しく費やした自覚でもあった。"God goes with me wherever I go."そう言えるのだろうか。
 山本七平の息子さんが、七平に戦地に神はいたかと直接聞いた話が書簡本にあり、彼はいたと答えた。あの凄惨極まる戦地のなかで七平さんは神はいたのだと確信した、ということが、彼のある意味で屈曲した信仰の原点になっていた。屈曲というのは、あの凄惨極まる戦地なくして啓示されるものでもなければ、その啓示があの凄惨極まる戦地を前提にするわけでもない特殊性があるからだ。そして、振り返ってみれば、神は七平さんの人生を振り回した。ステパノのように総身投石も受けたようでもあった。世の正義が石を投げつける様は、イエスに倣うことを示してもいた。