日経 100日裁判の経験を生かそう  :日本経済新聞

 木嶋佳苗事件を扱ったのは大手4紙では日経のみ。他紙は明日回しになったのかもしれない。

 木嶋被告は2009年に交際していた会社員ら3人を殺害したとして起訴された。弁護側は直接証拠がないと無罪を主張し、「疑わしきは被告人に有利にというのが刑事裁判の基本」と訴えた。
 判決は、木嶋被告が男性3人の死亡直前にいずれも会っており、現場の練炭とこんろは被告が購入したものとメーカーや個数が一致するといった状況証拠を一つ一つ検討し「犯人は被告人であると優に認められる」と結論付けた。
 判決後、記者会見した裁判員の一人は「裁判が進むにつれてだんだんつらくなった。だが、逆に期間が長く結束することができ、達成感がある」などと話した。
 今回の裁判では裁判員の選任の段階で多くの候補者が辞退した。辞退者が増えると、裁判員の編成が偏る可能性もある。やはり長期審理の弊害は大きく、少しでも短縮する努力が欠かせない。
 裁判員制度は5月に見直しの時期を迎える。こうした経験者の声を十分に聞き取り、制度に反映していくことが何より重要だ。

 問題への考察が混乱している。論点は、(1)直接証拠がないの死刑でよいのか、(2)裁判員の苦労をどう見るか、は、最低でも分けるべきだろう。2点目については、制度上の問題であり、これを機会に対応したほうがよい。
 難しいのは1点目である。これも錯綜した論点がある。(1)直接証拠がないのに死刑が下せるか、(2)死刑は妥当か、である。あるいは錯綜ではないと見ることもできるかもしれない。
 結論からすれば、「直接証拠がないのに死刑はくだせない」を公理のようにmpってくると、陪審員は不要とも言えるだろう。このあたりで、この議論の不健全さというのはあぶり出る。死刑というのは、正義を数学的に帰結したものではなく、国民が陪審員を通して表明する意思の形態である。つまり、証拠がなくても、我々がこの人は死刑だと言うことができる。
 だが、それが死刑であるべきなのかというのは別の問題である。