薄曇り

 春らしい薄曇りの朝。いつもと変わらない朝のようだが、気のせいか鳥の声が少ない。
 今日は午後、東京でも風速25mの風が吹くかもしれないとの予想が出ていた。昨晩の予想で、今窓の外の世界は無風のように見える。いやな予感もあり用心にこしたことはないと、予定を変えたものの。無風の空に嘲笑されているような不快感もある。
 不快感といえば、ただ不愉快という感情を喚起する夢を見た。詳細は忘れたが、私があるプロジェクトで上司や同僚を間抜けだなと見ているのである。馬鹿にしているのではない、なんというか、この能力でこのプロジェクトはできないでしょ。適当にやるしかないじゃないか、と。でなにが不愉快かというというと、そういう自分を見る自分が不愉快なのである。夢のなかの自分は他者も世界も冷静に見ているし、誰も馬鹿にしているわけではないと思っているのだが、確かに馬鹿にしているわけではないが、こんな間抜けな状況じゃどうしようもないじゃないかと呆れているのである。
 流れるようにやってくる不愉快という、ある意味で奇妙な感情のなか、お前さんが世間的に成功したらその不愉快の王様だったなという思いがする。いや、成功していない現在でも不愉快の王様に代わりはないんだけどねと答える。いずれも不愉快。
 それからある惨殺された少女のことを思い出し、現実というものの不愉快さというのをぎゅっと飲み込む。
 たぶん、acimの影響なのだろう。acimは、一元論あるいは非二元論と言われているが、なんのことはない偽装であって、二元論ではないかと疑っていたが、いや、やはりこれは一元論であり、この不愉快というのは二元論特有のものかもしれないとも思う。
 悪魔は実在するか。実在の意味がややこしいが、神の存在のようにありうるし、それは一元的な神観でもありうるだろうと考えてきた。が、そのあたりも、あやうい。あやふやに思える。
 現代世界は、科学的には一元論で出来ている。存在するのは物質であり、思考や精神は脳の働きであり、脳という物質である。そして人間は、進化によって知性を獲得した。つまり物質から自然進化する宇宙という機械が知性を必然的に生み出す、とされている。いや、正確にはそうではない。進化論は表向きは「知性」に拘泥しないかのようにとりすましている。
 だが、この現代世界は、人間関係や、そして必然的に法を取り込むとき、正義が、それは仮託されるだけでもあるのだが、出現し、結局二元論になる。人が、フッサールのいう生世界に生きるというとき、そこには意味が発生し、その意味は関係性のなかに反映される。
 逆にいえば、生世界なるものが現象として感受されない物理世界なるものを、科学が偽装して物質の一元論ができあがるのだが、それもまた、一種の知的詐欺というべきものにすぎない。
 まいったなと思う。acimのヘンテコな一元論と現代世界のヘンテコさは、うまくバランスして同一性であるかのようにも見える。つまり、それ自体が、生世界の意味の最終的な現れのようにすら見える。