kはインド人であったことから、仏教とも比較されるし、禅などとは比較しやすい。ところが実際に禅に比較している人たちの理解は、禅が理解されていないので、めちゃくちゃなものに思えることが多く、この領域はもうずっと前に自分ではご勘弁になっている。
 acimが、しかし、kとの連想ではなく、仏教によく似ていると思うことが多い。英語では、実践的な部分では、慈悲を、ザルツマンの影響だろうが、lovingkindnessと表現していることが多い。charityでは難しいのだろう。このあたりの難しい問題は、法句経の
 
愛するものに会うなかれ
愛させざるものにも会うなかれ
愛するものを見ざるは苦なり
愛せざるものを見るもまた苦なり
 
 にも近い。これを普通、「愛」なり慈悲ではなく、愛着(あいじゃく)なり愛着(あいちゃく)または執愛ではないと説かれることが多いが、それでいて親子の愛は愛としている。普通に仏教を見ていたらわかりそうなものだが、親子の愛こそ法句経の愛そのもなのである。その意味では、仏教は(ここでは法句経で代表させているが)、愛は普通に否定されている。では慈悲はということになり先の地点に戻る。
 仏教がわかりづらいのは、なぜ慈悲なのかということで、まず、愛と混乱が避けられないのと、愛に審級を導入して理解しようとする間違いが起こりやすいからだ。
 その点、ギュンターは、ダライラマでもそうだが、慈悲とは、空の意識そのもなのだとしている。そこで、空というとまた、存在論・知覚論が先行しがちだが、意識状態なのである。般若心経が説いているのはそういう単純なことだが、ほとんど理解している人はいないかにも見える。得阿耨多羅三藐三菩提とはそういうことなのだが。