曇・ログイン

 未明に目覚め、ぼうっとしている。夢はそのころまでは覚えていたがやがてわすれる。あまり幸せな夢ではなく、じっと恐怖が潜んでいるといったものだったように思う。カンフーバンダ2のような内なる平和というのが自分にはないものだなと思う。
 昨日、ゲームをしながら、ふっとああ、死ぬなあ俺と思った。そのあとぞぞっと恐怖が大波のように押し寄せるのだが、若干違うものがあった。世界の様相はプラスチックのようになって戻った。
 ACIM Textの大内訳は、ここが誤訳だといえるような点はないのではないかと思うが、それが訳文になっているかといえば、例えば、mindを「マインド」としているように、放置と見えないでもない。ただ、用語が微妙に日常語とも異なるのでしかたないのかもしれない。
 ACIM Textはもともと韻律の関係から長文や複雑な十分はないので、であれば原文で読めばいいではないかということになるし、一見して英文は複雑な構造はしていない。が、わかってきたのだが、単文でしかも韻律制限がかけてあるために、叙述的にはなっていない。構文の簡素化は参照の複雑さに代償されているだけだ。なるほど、ネイティブにもこれは難解な代物なのだろう。そしてその難解さが不要な権威にもなりかねない。
 ACIMは3部構成になっているが、ワプニックのヘレン伝を読むと、実質的には、Manual後の教義改訂をSongで引き受けていると読めないでもない。これはワプニックですら嵌った陥穽とも言えるもので、Textそのものの本質的に難しい面を表している。UrTextの持つ輪廻思想なども関連している。
 ワプニックには自覚があるのだろうが、ACIMの教義はクリシュナムルリティの教説とほぼ同型といっていいだろう。ただ、そこで解釈するべきものでもないが。
 ACIMをキリスト教神学で扱った文献はないかとざっと見たところ存在してない。ヘレン自身がマザーテレサと親交がありまたワプニックもユダヤ人でありながらカトリック僧でもあったしマイケル神父も関与していることから、カトリック的にはあまり教義的に問題視したくないところだろう。
 グノーシス思想との関わりは、聖書学的には興味深い。デミウルゴスは否定されているが、広義には仮現説として見てもよいだろう。この点はワプニックにはキーンに意識されていて、ヘレン生前に「イエス」自身に問うている。答えは一つの神話だろうが、身体に見える復活は霊体としかいいようのないものであり、そこでは広義にニカイアに近い。そして全体的には、普通にプラトン主義と言えるもので、フィロン的な文脈にも接合するだろうから、ACIMこそが新約聖書なのだと言えるような側面もある。
 ただ、そう考えてどうということよりも、キリスト教が胚胎する神義論的なアプリアの必然的な結論がACIMと言えないこともないというのが、まあ、唖然とするといえば唖然とする。それらがユニバーサリズムに統合されてもしかたはないだろうし、バルト神学的な啓示の接面でかろうじてキリスト教とは異なるもとなるのだろう。バルト神学をカトリックや正教がどう見ているかというのは、それも難問ではあるが。
 まあ、自分自身の死がぶらっとぶらさがっている人生の局面で、神学パズルを楽しむほどの余裕はないなあというのはある。