ログイン・曇

 憂鬱げな空。もの思うこと多し。
 存在とは、人間には(生物には)一義には知覚を意味するし、それはアプリオリな知覚のフレームワークを要する。つまり、私たちは最初から限定された知覚セットから見ている。それはなぜかといえば、フッサールのいうように、それが生の世界だからとしかいえない。別の言い方をすれば、客観世界とは、そのセンスデータによるのか、ある種の抽象の結果なのかという問題にもなる。まあ、このあたりは、偽科学批判とか素朴リアリズムの人には通じないし、その通事なさはスコラ的な愚論になる。
 それでも、客観とは間主観であり、それはアプリオリアフォーダンスを含んでいるというのが人間の前提であり、その間主観性とは、他者との客観なるものの合意を意味する。というか、どこまで合意するかということが、つまるところ科学の意味になる。つまり、科学とは実在・客観の学ではなく、そのコミュニケーションの度合いを市民社会的な知においてスケールする手続きである。
 ということは逆に、そこで人の内面は、そこから必然的に疎外されるのだが、いわゆる科学主義啓蒙主義はその内面に倫理的に作用しようとするとも言える。つまり、科学が市民社会の基準を超えれば、どのように科学的に見えても、やすやすと宗教と合一機能化する。