まあ、これもちとまいったかな

 ⇒はてなブックマーク - 0.02%の嘘 - lizard-tail studio
 オリジナル⇒0.02%の嘘

 水を飲んでも大丈夫?誰かにこう問われ、僕は一瞬迷い、大丈夫だよと答える。これぐらいなら大したことないよ。一瞬の躊躇を見抜いたのか、相手は怪訝そうな顔をする。
 理由を一生懸命説明する。今伝えられているような放射線の量では滅多な事じゃガンにはならない。はっきり影響が出るような数字には全然足りない。不安そうな表情は消えない。彼らや彼女たちが聞きたいのは解説なんかじゃない。ただ安心したいだけだ。言葉は空しく虚空に消えていく。
 
 本当に?
 うん、大丈夫だよ。
 
 少しだけ良心の呵責を覚える。僕はたぶん嘘をついている。

 まあ、コラムとしては意表をついて面白いのだろうけど。
 市民は、というか、公共というのものは、そういうふうにものを考えない。というか、そういうふうに考える領域と、そうではない領域を分ける。そしてそうではない領域なら「少しだけ良心の呵責を覚える」とかありだろうけど。
 市民は、公共において、なにが規制されているか、その規制の妥当性を考える。
 水の場合は平時は10Bq/lというのが公共の規制。
 今は非常時なので300Bq/lという規制になる。
 そして、その公共の規制をどう考えるかということ。それを支える科学をどう評価すること。評価できる・信頼するというなら、「少しだけ良心の呵責を覚える」という心理の回路はない。

この言葉にはほんの少しだけ嘘が混じっている。1mSvで0.02%。いや、ただ単に嘘と呼んでしまうにはあまりに希薄で、かといって知らないふりができるほど小さくはない何か。僕はこの感情とうまく折り合いをつける方法をまだ見つけられずにいる。

 それは、市民と公共というものをきちんと考えてこなかったから。
 そしてその嘘の知覚は、本人の内面においては真正でも、他者との関係では、偽の良心となるという典型的な事例。
 まず、社会から考えよう。他者とどう共存していくかというふうに良心を発動しよう。
 そのことは同時に、今の非常時から、平時の基準にもっていかなければならないということであって、多少の放射線なら確率的にどうたらというふうに考えていくことではない。