日経 春秋

政治家としての家持の不幸は、藤原氏が絶対的な権力を確立していく時代に居合わせたことだろう。結果として千年以上にわたり貴族社会の頂点に座り続けた藤原氏の栄華は、奈良時代に決定的な基礎を築いた。大和朝廷以来の有力豪族、大伴氏は、度重なる政争で藤原氏と対立する立場に回りがちだったようだ。

 「藤原氏の栄華は、奈良時代に決定的な基礎を築いた」かどうかなんだがね、この時代の難しさは。四兄弟の死は大きな転機でもあった。
 大伴氏の低落は家持については藤原氏の関係だがそのきっかけを作ったのは旅人だった。
 推測になるのだが、長屋王の忙殺を旅人は見殺しにした。この時点で大伴氏の命運はもう藤原の下にあった。そしておそらく長屋王は名実ともに親王であっただろう。高市皇子は実際には天皇であったのだろうというか持統天皇と呼ばれている人は高市であろう。王家弑逆とそれに続く四兄弟の死亡は聖武天皇を発狂させた。その巨大な護符があの大仏であろう。
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1250年前から行方不明だった正倉院の宝物が見つかった。聖武天皇の妻、光明皇后が奉納した2本の大刀だ。皇后は藤原不比等の娘で、皇族以外の女性で初めて皇后になった。藤原氏の時代の到来を象徴した人は、大仏の足元に納めた大刀にどんな思いを込めたのか。平城遷都1300年の秋に想像が広がる

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正倉院の謎: 由水 常雄

正倉院藤原仲麻呂のクーデターのための武器庫、宝物庫だった!あの名香「蘭奢待」は信長だけでなく、明治天皇にも切り取られていた!岩倉具視伊藤博文井上馨ら明治の元勲は「宝物」を私物化していた!?厳重に封印された正倉院から、なぜ「宝物」類は消亡、増減したのか?歴史の闇に隠された「宝物」の数奇な運命。

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 推測ではあるが、恵美押勝は事実上皇帝になろうとしていた。紫微中台とはその組織であった。
 日本書紀という史書はこうしたどろどろのなかで、天武王家を正統とし続日本紀孝謙につなぐためのものであった。
 結局、天武王家が滅亡し、百済・天智系に代わり、唐の滅亡の空隙で事実上日本が再生した。