曇り

 蒸し暑い。昨晩は、寝付いたはずが目覚め、ありゃと思いつつ睡眠系の音楽を聴いているうちに寝た、と思ったら、明け方目が覚め、でまた寝坊。暑さのせいか。いろいろ無意識の悩みが貯まってきているのか。
 このところ、ぼんやり死のことを考える。というか、私は子供の頃からずっとそればかり考えて生きてきた。で、結局生きていた。不思議でならないという感じもしないではない。50歳を超えた。53歳の誕生日もなんなく超えそうでもあり、しかし、閻魔がそうやすやすと私を逃すとも思えず、怯える(ちなみに比喩ですよ。ネットだと比喩とか反語が通じない)。
 なんども書いてきたが、私の人生は社会的には失敗だった。それは自分が招いたものだし、自分の才がこの程度のものだったというのは、生きていると納得する。後悔はないわけもないが、いつのまにか薄れる。過ぎたことだ。
 人を羨む気持ちもないわけではないというか、ふつっと折に触れてわき上がるが、そう続かない。ああ、羨む空しい自分がいるなと引く。引くのは、そういう思いがなんら利得を生まない。
 普通の人のような人生を得ることができるならあと20年くらいは生きているかもしれないが、ぼろぼろになっていくだろうし、さらにダメになっていくのだろうなと思う。この世というものにすがりたい気持ちもある(カネや名声)。しかし、それは私にはないだろう。若い日の残酷な希望がなくなっただけ、楽という面もあるが。
 私が生きているのは今だけだ。なんと不思議なことだろうと思う。私が消えた後の世界は私には無だというか、私が無に帰す。しかし、私はそもそも無から生まれてきたものだ。無からなぜ私が生じたのだろう。
 私は神というものは、信仰者のようには信じることはできないが、私が被造物であるという感覚は、ながくキリスト教になじんでいたせいかなじみつつある。であれば、ロゴスがあり、私の生を生み出した言葉とは意味であろう。そして私の人生とはその意味の解読だった。
 つらいと思うのは、人はその意味を社会のなかで、歴史のなかで読み解こうとする。しかし、そうすることはできない、不可能だというその一点のなかに神が愕然と存在するように思えることだ。
 人は自身を義とすることはできない。これはキリスト教が私に教えたことなのか私が生来そういう確信だけを持って生きてきたのかわからない。しかし、世が不義で自身が義に見えるとき、人はどうすべきか。人が狂気ではないなら、彼の義を支えるものはこの世のものではない。しかし、どうして彼が狂気でないと言えよう。
 そこはわからない。ただ、世の称賛は狂気を意味しても正気を意味しはないようには思える。そしてそれは世に求めるものでもないという諦観の先に、それは信仰というもかもしれないとは思う。