3月25日なので小中学校では卒業式なのではないか。自分も部分的にヴィヴィッドに覚えている。そしてその感覚のなかで12歳であったり15歳であったりする。それが50歳を過ぎた自分のなかに共存し、そしてどこかしらその共通の風景のなかで生きたいと思ってもいる。成人式のとき、中学校卒業以降久しぶりに会った知人がいた。とても久しぶりに思えた。女の子たちも大人になっていた。とても久しぶりだという思いが強かったが、考えてみれば5年間のことで、あれから30年も経っている。今度は大人ではなく、初老になる。老いはこの年になると人よって違うので、若作りの人も多いだろう。▼昨日、ツイッターで学者の宮台さんの、放言と言ってよいと思うので真に受けるほどでもないが、若い頃は100人以上とやったという話があった。性交という意味。すごなと思う。うらやましいものだとも思う。やりたいかとメフィストが問うなら、諾と言ってしまいそうな自分がいるが、その商談の見返りはろくなものでもないだろう。じゃあ、あんたは若い頃何人とやったの?と言われると、微妙に答えづらい。なんで微妙で答えづらいのか。また、ほのめかしかよ。いや、ほのめかしではない。いわゆるほのめかし云々は過去日記やブログのほうを読めばたいていは書いてあるんでググレカス。何人の女とやった。あるいは女なら何人と男とやった。それは微妙だ。40過ぎると、忘れてしまう。学者の栗本さんも言っていたが忘れてしまう。類型は圧縮されてしまうのだろうか。山本夏彦翁は千人の女とやっても一人の女しか知らないと喝破した。翁は日本人はちんちくりんとか言いながら若いころは颯爽とし客船で外人の年増女とやりまくっていたっぽい。遠藤周作も「アデンまで」で白人の女との性交における自身の姿を糞便の色のように見ているが、やっていたくちだ。まあ、そのあたりも微妙だ。▼宮台さんのやったうちの10%くらいはその関連業界ではないだろうか。すると女もそれなりに名の立っている人だろう。そういうことがある。そのあたり、女の側でもあの男とはやった、という記憶はある。が、女の場合、それは事実ともう一つの単純な評価で終わっているように思う。男も100人とやるような人は同じかもしれない。宮台さんはそれらの女より零落しているということはないが、私などは、やったにいたらない女性たちの数名は高名な人になっている。というか、いたらなかったので記憶にもないだろう。ここで苦笑すべきかなと思って苦笑している自分がいる。▼高名な女はそこそこに美しく、そしてどこかしらそう美しくはない。別段女が40過ぎて美しくあればよいものかはわからない。というか、その年以降は美しさの意味は変わる。人はよくわからないのだが、それなりの運命の老いをたどっていくと、それなりの神の像になる。吉本翁のよぼよぼの姿には、人とってはただのよぼよぼだろうが、神聖な何かでもある。山本七平の最期の姿を見た知人は預言者のようだったと言っていた。▼若さだけが特定の男女にもたらす、無形の美しさといったものがある。無形でなにが美しいのか。いや無形じゃない、形の美しさでもあるのだが、そこも言い難い。普通に平凡に幸せな家庭を築き、おばさんになりおっさんに変わっている。そしてそこにまた美しい子どもが生まれる。世間がほっておけばその連鎖はつながる。たまに社会のオモテに出てきて、人を驚かす。