うーむ、「道義的義務」というのは修辞であって、法的な規制であるべき「義務」ということを無意味化しているのではないかな
⇒移植を待つ親は、子が脳死になったら臓器を出すか? - 感じない男ブログ
別の言い方をすると。
問われているのは、社会の制度(法制度)で、あって、その制度推進には参政する個人の道徳的感性はあるかもしれないけど。
市民の行動は、社会的には法によって規制され、個々人においてはその個人の行動がその道義によることを妨げてはいけない、ということではないかな。
別の言い方すると。
「道義的義務」は個人には問われるけど、社会的には問われる問題ではないので(「道徳的義務」はそこでは修辞)、法的な議論とは分離されるものではないかな。
で。
「道義的義務」を自分がまっとうできないがゆえに、ある法制度の成立に反対するというのは、一つの政治運動というか宗教・倫理的な行動としてはありうるけど。けど、公的にそのことが問われたとき、答えるかどうかは自由の問題だろうと思う。
ナッジ的に考えると……まあ、考えることはできるけど……。