学問とか

 多くの学問を修めることはできないものだけど、以前も書いたけど。
 西洋の学問の場合、インフラのように自由技芸と神学がある。これがああなるほどねとわからないとその上に載っかっている学問はわからないのではないかな。
 西洋の学問だとこれに体系への情念のようなものが加わる。神学の派生なのかとも思うが、神学にもそれが適用されるところを見ると、これは西洋の情念といったものだろう。
 で、自由技芸と神学が再構築されるなかでいわゆる学問が出てくるのだけど。これには、基本的な3つの構成面があると思う。

  1. 原理的構成
  2. 歴史的構成
  3. 教育的構成

 ある学問が、原理的にどういう構成にあるか、歴史的構成はどうか、教育的構成はどうか。基本的に初学者の場合は、教育的構成から原理的構成につながり、原理的構成が歴史のように見える。
 政治学・経済学における「自然」といった基本概念とかも、操作的には歴史の原初として設定される。
 ところが、その学問を、つまり西洋の学問を、日本人のように異文化から見るときは、歴史的構成のほうが理解しやすい。なぜあいつらはこんなことを考えているのかという履歴を見るというか。ここで難所なのは、彼らが歴史的構成として見ているものは、案外偽史というか、ただの恣意的な再構成だったりする。
 一つのひな型としては近代の「科学」がある。まあ、この部分も科哲として独立して扱われる部分があるのだけど、歴史的構成として18世紀19世紀に戻すとある程度見えるものがあり、特に進化論というかダーウィニズムが面白い。ダーウィニズムをその歴史に還元するという作業もかなり進んでいて、実は現在のいわゆるダーウィニズムが出現したのは20世紀の前半であることが見えてくる。
 そうではない歴史的構成があるのかというのもむずかしいが。あと、他文化から見るというとき、超越的な他文化主義や異文化を設定しまう視点が現代にはあるけど、これはただのインチキだと私は思う。
 歴史的構成と原理的構成の狭間で、ある学問がもつ原罪のようなテーマが現れる。ここが非常に微妙なもので、そのことを問わずにはおれないというオブセッションのようなものがある。私の印象では、これは西洋人の特有の精神構造というか言語の仕組みに根ざしている部分が多く、日本人や中国人は理解できないのではないだろうか。というか、その一端が見えたとき、なんで大げさにアホ臭いこと悩んでいるのかというのはある。
 中国文化の世界の学問はまたこれとはまったく違う。中国世界でも学問の普遍性みたいのは同じだろうというのはあり、それはないわけではないが、意外と現代でも古典的な中国の世界の学というのは生きているようだ。
 実際の学については、教育的構成から原理的構成そして原罪のような問題から、各スクール(学派)がうまれ、逆にいうとスクールからこの逆の部分が見えるのだけど、ジャーナルを構成する。その査読の体系が実際上の学の集団になる。そしてこれは10年から20年のモードの変遷がある。
 昨年あたりから、ちょっと気になる学問分野の本を読んでいて、いろいろ思うことがあった。いや、端的にいえば心理学だったのだが、心理学における心というのは、それ自体が日本人には理解しづらい構成的な概念だった。マインドというのは計算機だと言ってよく、そのモジュールの構成性が現代の脳機能・神経学において脳の構造に機能マップされている。
 それってすごく間違いなんだけどなとは思うが。今はそういうモードにいる。
 そういえば。
 ⇒[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔): 極東ブログ
 下條さんの研究、心理学の歴史構成を見直したら、ああ、なるほどと思う部分はかなりあった。