産業資本主義と金融資本主義

 今朝の朝日新聞社説の与太を読みながら、そういえば、産業資本主義と金融資本主義の区別みたいのはあまり見かけなくなったなと思った。私が経済学を学んだころはごく基本というか、重要でもあったと思うが。
 雑駁に以下。
 マルクスには多面性があって、現代的な意義はよく言われるように初期で、後期の、経済学的な集成である資本論は、古すぎてなんじゃこれみたいになりつつあるというか、ローマーあたりの議論が面白いのかもしれない。それはそれとして。
 資本論には、これもいちおう言われてもいるのだが、初期哲学とは別の哲学が込められていて、そこが難しい。松尾さんとかの議論を見ていると、疎外論として取り出したいのだろうと思うが、私はちょっと違うかなと思っている。
 資本論の最大の問題は、1巻で全貌が見えるようでありながら、実際には3巻の、市場の問題が反映している。市場をどう捉えるかなのだが、雑駁きわまりなくいえば、マルクスの市場は、吉本的な意味ではない「公」の経済幻想として必然的なプロセス概念を包含しており、価値は市場を介さないと生まれない。このあたり、一般的には、市場を実際の取引の場として概念として捉えているが、私はこれは、どちからというと生態学的な、ポランニの原型のようなものだろうと見ている。
 が、この3巻が実際にはエンゲルス編集で、ずたぼろになっていて、どう読んでよいのかわからなくなっている。
 1巻は、原理的という意味で、国家にクローズしたモデルになっており、このあたりは結果的に森嶋の理論がそれをモデル化して解明しているのだが、ここでは当然ながら、産業資本主義の問題になる。
 マルクスが金融資本とそのモデルをどう考えていたのか、いろいろ言われているわりにはわからない。わからないのは、「マルクス」として理解したがるものだから、どうしても初期哲学に引っ張られてしまうからだろう。
 その面では、歴史的にはヒルファーディングからカウツキーに流れていくのだが、ここでヒルファーディングのヘンテコな亜流のレーニンの愚考が「帝国主義論」になってしまって、以降、マルクス主義はめちゃくちゃになる。エンゲルスからすでにそうなので、しかたがないともいえるが。
 「帝国主義論」は帝国主義が問題ではなく、金融資本主義の実態の問題なのだが、マルクス主義的なフレームワークがなく、議論がめちゃくちゃになる。まあ、その筋からはそんなことはないとうんざりあるのだろうが。ただ、このあたりは、アーレント帝国主義の考えが、きちんとそっちの筋から正していてなるほどとは思った。
 では、金融資本主義はどうかというと、こちらはポランニが仕事をしている。当然ながら、マルクス=ポランニとつなげるべきで、その着想を得る人も多いのだが、うまくはいってないようだ。
 ヴェーバーが微妙になる。池信先生がさっくり指摘しているように、史学的には「プロ倫」はごみでしかない。ただ、そういうもんじゃないよというのが大塚史学・経済学なのだが、これがまた独自に歪んでいて、真面目に受け取ったら「悩む力」になってしまうだろう。
 「プロ倫」はさっくりと見ると、できそこないと産業資本主義、の、経営論みたいだが、実際的な原蓄論のようでもあり、金融資本主義的でもあるが、この時代の史学ではよくわかっていない。たぶん、金融と資本は一体ではないのだろうし、それらが諸国家を包括していたのだろう。
 私としては、「プロ倫」の価値は、「来世」としての集団幻想・国家幻想ではないか。貨幣がそれの機能として下位に機能することでは、と。
 与太に与太だが、経済学の信用というのもよくわからない概念だ。「複式簿記における貸方ですが何か?」というとき、実は、複式簿記は「プロ倫」から生まれているのだよね、気づいている人は少ないみたいだけど。