晴れ

 日差しが眩しい。空気が澄んでいるのかと富士山のほうを見ると霞んでいる。夢は覚えていない。くったりと寝坊した。ぼんやりと朝食をとり、教育関係の本など読みながら、昔の学校の先生というものを思っていた。技術的には優れていないし、人間的にもどうかなと思う人たちはいたが、普通の社会の延長に近い部分はあったような気がした。年配者は男女ともに戦争の経験者だった。軍人上がりもいた。進駐軍通訳上がりもいた。私が中学生ごろに現れ始めた戦後の先生とは、なにかが決定的に違っていた。表層的な近代性は古い先生のほうがあったのではないかと思った。表層というのは、たとえばグループ学習とか話会いとかその手のものではなく、子供の事故とか貧困とかリアルな生活に向き合う点のほうで彼らはきちんと、しかし日本社会に折り合いをつけた近代性を示したように思えた。あれはなんだったのだろうかと思った。話がずれるが、50年代から60年代の米国ある種の理想主義みたいなものがある。言い方はわるいがその頃から盛り上がる黒人問題を捨象したような、今から見ると偏った人道主義みたいなもの、というか、中産階級のモデル的な理想主義みたいなものだが、あれはあれで、きちんとそれなりの成果というものもあるようには思える。話が飛ぶが、現代のある種の問題は、政治性の枠それ自体が桎梏となりうるような状況のなかで、ある種理想的な(モデル的なという意味の)ヒューマニズムというのはあってしかるべきだし、欧米にはそれなりに流れがある。日本人の場合、人情の延長というのはそれなりに人種を越えてあるし、仏教的な平等観もあるのだが、人間の尊厳を歴史の原動力に組み込むような意識はないのではないかな。これは私が誰かを批判するとかという意味では全然なく。