フーコーの権力論というか

 一般的には、フーコーの権力論というのは、権力を国家にのみ依拠させるのではなく、社会全体に網の目のように張られたものとして理解され、いわば、国家権力論と対置されたように理解されている。
 これがね、そういう一般的な理解と違うんじゃないかと思う。これを議論するには、きちんとフーコーの原典が必要なんだけど、けどにためらうのは、フーコーって史学的には実はトンデモさん。
 一般的には、フーコーが同性愛に関心をもったこともあり、人と人の直接的な差別や権力の関係をアトムとして社会というシステムでどう働くかというボトムアップ的なモデルとして理解されていると思う。
 違うと思うのだよね。
 フーコーヘーゲルを継いでいて、社会と国家の差異を前提にしているはずで、国家の成立は市民の成立と同時。ということは、この網の目の権力というのは、社団的な社会と個人の間、と、国家=市民対社団的な社会の間という、二つの軸があると思うだよね。
 いわゆる国家間の支配・被支配というのは、一方の国家に権力を置いてその絶対性において被害者というのを措定し、それを正義に結合させるのだけど、これは、ようするに、勝てば官軍と同じこと言っているわけで、あるいは論者がつねに自分は弱い側に立つということで正義の自己満・欺瞞ということ。だからその欺瞞から反対論者を血祭りにあげずにはいられない強迫が生じる。
 春樹の例の例えは一見そう見えるけど、そうじゃなくて、そうした国家間の勝てば官軍的な志向そのものを個人のプライベートな領域から転倒したところに意味がある。
 ただ、それは同時に、権力から人を解放はしないと思う。
 というのは、市民というのは国家と同じで、社団的な社会との権力の支配・被支配の関係にあるということが理解されていないから。
 おそらく、フーコーの言う権力論というのは、社団的な社会に発生する権力と、市民たるべく国家に志向する権力の矛盾的な相剋を意味しているのだろうと思う。
 近代が市民を確立し市民権さらに人権とういとき、暗黙に国家を介在させて権力の、支配・被支配の臨界を生み出してしまうし、まさにそれこそが徴兵の本質でもある。徴兵というのは、それによって市民の自由を作り出す、というか、だからスイスのような永世中立国は市民が自発的に銃を取ることになる。
 が、その市民権・人権なりが、臨界において、表面的な侵略とか支配・被支配を、あたかも臨界の向こうとして異民族の関係、さらにその民族幻想から向こう側に国家の幻想を生み出し、それが鏡像的にしあげられる。
 この全体構造のなかで、国家と結託した市民をどう止揚するかというのが、本当は近代の問題なんだし、歴史の仔細を見ればそういう問題がごろごろしている。
 でも、そういう臨界と矛盾に投げ込まれなければ気がつかないものなんだろうと思う。