こういう歴史もあるんですけどね

 と、ウィキペディア済州島四・三事件 - Wikipedia

済州島四・三事件(チェジュド(さいしゅうとう)よんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。

 ちなみに日本の独立は1951年。このあたり、どうも若い人と話していて、れれれ感があるけど、敗戦の45年から6年間日本ってなかったんですよ。

流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが、四・三事件の難を逃れようとした済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前(1948年)に28万人[1]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[2]。

日本にいる済州島出身の在日韓国・朝鮮人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かった。しかし韓国政府が反省の態度をあらわし始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている[4]。

 ついでにというのは何だけど台湾は⇒二・二八事件 - Wikipedia

二・二八事件(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、かつて日本国民であった本省人外省人との大規模な抗争。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。

この事件によって、約28,000人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

 このあたりの歴史は、ちょっと勇み足的にいうと、1945年に日本が戦前の日本から切り離されたことで、日本史の外部の事件とされている。
 実際には、日本国の関与という意味での関わりは主体がない時代なので原理的に問えないとしても、日本の民衆史には大きな意味を持つのだけど、そういう視点で統合された視点というはみかけたことはない。が、戦後の民衆の歴史感覚にはきちんとあったけど。さすがに忘れられていく時代になった。
 現代の史学だと、どうしても日本というのについて、現在の日本の領域をなんとなく近代以前にフィードバックさせてそこからの拡張部分を侵略と見る。確かに侵略なんだけど、近代化という意味での日本を原点とする浸潤的な、滑らかな動きがあり、孫文だの新垣弓太郎などを生み出していく。そして、もうちょっと踏み出していうと、おそらくコミンテルン的なものも広義のアジア的な近代化でもあっただろうとは思う。それらが、ある空隙にあったとき、これらの虐殺が起きているのだが。がというのは、ここが今の日本人ではわかりづらいのだけど、ここで虐殺された十数万人の人は、ある意味の広義と曖昧になるけどという限定で日本人でもあった。内地の日本人は、どうしても本土内とあと兵士の戦禍だけを考えがちだけど、広義に日本人化させらたところでその日本人は日本の空隙において虐殺されている。その意味がうまく確定できれば、沖縄戦というのもまた、内地日本の空隙によって生じた同種の虐殺事件であるかなとは思う。
 まあ、この考えは、いわゆるウヨサヨにもなじまないし(というかウヨサヨは結局責める方向が違うだけの同種のナショナリストでしかない)、おそらくそういう感性でこの広義の日本を見る人はいないのかもしれない。という以前に、「広義の日本」なんて「侵略だろ」で終わりにされてしまう。それはそうなんだが、では、新垣弓太郎とかいう人間タイプをどう考えるかとは問われない。表面的な方向性は違うけど、洪思翊もそうした一人かもしれない。
 

追記
 ⇒はてなブックマーク - 新着ブックマーク - d:id:finalvent

mstil 歴史認識, はてな 「広義の日本」なんて普通に「侵略」だろ(弁当さん自身も認めているように)。植民地にされた国で宗主国に同化しようとする人間が出てくる傾向は、近代における侵略の歴史では常識。言葉で繕うのやめようよ。 2009/04/18

「植民地にされた国」、その考えは、実は、侵略する/侵略されるの前提にその二項の実体として国家を措定していることになるのだけど、そうした国家は実は近代化のプロセスのなかで相互に生成されたものなのですよ。ちょっと極論すると、スペインの帝国侵略がなければフィリピンは存在しなかった。島が近いだけで諸島の国家はできないし、まして島を越えた王朝といった民族史もないし、これは陸続きのアジアでも同じで、領域性からは民族・国家は同定できない。そして、たとえば中国を例にするとこの近代国家を生み出したのは近代日本であり、少し勇み足になるけど、近代化のプロセスで日本が中国を生み出したのですよ(中国四千年とか、清国とかいうのはその後付けの民族的幻想史)。
 あと、「宗主国に同化しようとする人間が出てくる」と超歴史的にいうけど、この虐殺の歴史のなかで、殺された人たちは自身をどう規定していただろうか。彼らを「宗主国に同化しようとする人間」として外化することは、実はこの虐殺史に、今の日本という国家幻想の身勝手な免罪でしかない。私の父までの日本人にしてみると、彼らも日本人だったが、なにもできない痛みがあった。
 mstilさん的な言い方をするなら、近代日本のアンチテーゼとして措定されるような実質は転倒されたナショナリズムを元にして民衆を国家の所属させるような知の営みをやめようよ。

Itisango 日本, 国際, 歴史, 韓国, 中国, 台湾 「敗戦の45年から6年間日本ってなかったんですよ」敗戦時に独立権を失っていることは日本政府そのものが存在しない事を意味しないと思うな。占領軍の意向に従って統治は続けたのだから。 2009/04/18

 そういう幻想をみなさん持っているのですよ。そして、今でも日本が独立国であると思っていらっしゃる。

mahal 学問ラン2, 国家 んー、巧いこと言語化できないので本当にネガコメになってしまうんだけれど、追記の部分にfinalvent氏のダメな部分がある種凝縮されてるというか、思想による歴史の語りのある種の失敗例っぽく思われるような何かが。 2009/04/18

 批判点がわからないのだけど、この問題は、実は、「思想による歴史の語りのある種の失敗例」というより、この歴史を生きるということに要点があると思う。この歴史を生きるにはどう歴史考えるか。この歴史を生きるということは、ざっくばらんに言えば、つかこうへいが言ったことに帰すると思う。まあ、個々の人の実存の契機みたいなものと国家幻想が交錯する問題なんだろうと。
 つかこうへい⇒もう復刻はされないと思うけど - finalventの日記
 戻して。

tokoroten999 「そういう幻想をみなさん持っているのですよ。そして、今でも日本が独立国であると思っていらっしゃる」そんなこと言い出したら事実から乖離した思想(定義)合戦にしかなんないよ。 2009/04/18

 で、事実は、日本は独立国である、と。

letterdust 日本政府(行政的な機能)がないとしたら憲法案を折衝したのは誰なんだろ。 2009/04/18

 「折衝」の意味がよくわからない。GHQ様に「下賜」されたのでは。

 
追記
 ⇒広義の日本人こそが、皇国に反逆した - 弯曲していく日常

植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実。(今回のガザのように、という比喩は間違っているとは思えない) それをあくまで回避しようとするfinalventはやはりネトウヨに過ぎない

 え? では、同じ言い回しで返答していいかな(呼び捨てを含めてね)。つまり、「圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実」を回避しようなんて思いませんよという弁明の余地を与えないnoharaはやはりネットサヨに過ぎない、ってこと?
 冗談はさておき、そして人を呼び捨てにするのは私の礼儀ではないので、では、noharaさん、noharaさんはこの言明によって、人は国家を持つことで圧倒的に理不尽な抑圧を避けえると考えるナショナリズムの信奉者であること暴露していますよ。
 圧倒的に理不尽な抑圧は国家間のみならず国家を貫通して浸潤していたその実態がnoharraさんには見えないのだろうと思う。ガザにおいて自らの意志において進んで人間の盾となったパレスチナ人をnoharaさんは「皇国に反逆した」人たちのように見るのだろうか。私は、戦争という狂気の同じく被害者であると思う。

しかし、大日本帝国を支持していた洪思翊は、南京大虐殺を直視しようとしないfinalventを決して許すはずがない。((finalventさんが南京大虐殺を直視しようとしてないかどうか、は実は知らないが、沖縄虐殺(国内問題なのに)すら直視しようとしていないのでは推測が付く。)

 「実は知らない」ことをこうさらりと書くのはやめてくださいね。私と限らず普通に失礼だと思いますよ。あるいは私とかならかまわないというなら、普通に差別主義者だと思いますよ(それがあたり?)。
  まあ、本人の知らない本心を推測してくださって糾弾されるには慣れましたが。
 「沖縄虐殺(国内問題なのに)すら直視しようとしていない」のはどう推測が付くのかわからないが、沖縄で8年暮らし、虐殺の場所を経巡り、生き残った古老の話を私は聞き回りましたよ。そして、私はこの虐殺をぬけぬけと「国内問題なのに」と言いのけるナショナリズムは持ち合わせていない。
 「大日本帝国を支持していた洪思翊」といわれて、洪氏は許すだろうと思う。そして同じ理由で、私も許すだろうと思う。なにより、私は、洪氏がこの世に最後に残した言葉を知っているから。

その日本人は日本の(皇軍の)過剰において虐殺されている、としか記述しえないだろうが。

 皇軍(ところで「皇軍」は基本的に戦後の言葉)の過剰は、その内面に及ぶ。内在にあっては、自らが正しいと思うものによって人は呪縛されていく。正義はそのように人を呪縛して殺していく。
 で。もうひとつ。
 ⇒人を殺すものは「呪縛」あるいは「正義」である - 弯曲していく日常

だからね、あなたはただの議論巧者にすぎない。グレーなものを二項対立図式に還元し、noharraは「国家を承認するもの=ナショナリスト」だと結論付ける。そもそも論点はnoharraの思想ではない。

 ご冗談を。
 ⇒広義の日本人こそが、皇国に反逆した - 弯曲していく日常

(後に独立する)その国家が実は(植民地化)近代化のプロセスのなかで生成されたものというのは確かだが。植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実。(今回のガザのように、という比喩は間違っているとは思えない) それをあくまで回避しようとするfinalventさんはやはりネトウヨに過ぎない。*1

 二項の国家を措定して一方から「圧倒的に理不尽な抑圧を受けた」とし、しかもそれをガザになぞらえるnoharraさんの思考法こそ、「グレーなものを二項対立図式に還元」している、そのものではないですか。
 ただ、少し譲歩すると、ガザの問題にnoharaさんはグレーな部分はない、とお考えなのかもしれませんね。というのも、こういうお考え。

 またまたまた「人間の盾」なんてデマゴギッシュな用語をわざと使うでしょ。嫌な奴。
 なるほど! 「戦争という狂気の同じく被害」というカテゴリーにすべてぶち込むことにより、イスラエルの「ホロコースト」を免罪する。日本のシオニストのレトリック!*1

 自虐的に言うのじゃないけど、こういうお考えのかたに「嫌な奴」と呼ばれるのは光栄です。なぜか。私は以下のように、「人間の盾」なんてデマゴギッシュな用語を使うアムネスティと同じ立場に立つわけです。だから、アムネスティもまた、同じ論法でnoharaさんにとっては「嫌な奴」なのでしょう。私は、アムネスティと同じ立場に立って、noharaさんから「嫌な奴」と言われるのは、だから、光栄ですよ。
 ⇒【ガザ侵攻】「人間の盾」やめよ アムネスティが双方に - MSN産経ニュース

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は7日、イスラエル軍が地上侵攻作戦を続けるパレスチナ自治区ガザの情勢について、イスラエル軍パレスチナ武装勢力の双方に対し、市民を「人間の盾」として利用することをやめるよう求める声明を発表した。

 noharaさんにしてみると、アムネスティも「戦争という狂気の同じく被害」というカテゴリーにすべてぶち込むことによっているという理屈になるのでしょう。というわけで、noharaさんにしてみると、ロンドンに拠点を置く国際人権団体アムネスティ・インターナショナルも日本のシオニストというわけです。
 それと。

無垢なあるは馬鹿な沖縄住民は「呪縛」あるいは「正義」によって殺されていくわけですね。具体的に住民に手榴弾を配った皇軍の責任はあくまで隠蔽される。いまさら何を守ろうとしているのか?

 いやすごいなと思いました。noharaさんは、沖縄住民を馬鹿と愚弄しているわけです。私はまったくそうは思いません。無垢であるとは思いますが、馬鹿だとはつゆ思いません。正義に呪縛されるのはけして馬鹿だからというわけじゃありません。私はnoharaさんを馬鹿だとも思いませんよ。
 そして、どこの文脈から出てきたのか知れないけど、「具体的に住民に手榴弾を配った皇軍の責任はあくまで隠蔽される。いまさら何を守ろうとしているのか?」は私ですか? 私は鉄血勤皇隊だったかたともなんどか対面で話をしたことがありますが、そういうふうに言われたことはなかったです。

 ⇒finalvent氏への応答 - mstil/diary

日本は近代以前から、少なくとも本州に限って言えば非常に強固な同質性を持っていたし、朝鮮半島もそうだ。また日本、朝鮮と比べてはるかに多様な民族が存在する中国においても、例えば漢民族が「現在の中国の領域」で積み重ねてきた歴史は、領域と民族をかなりな程度、同定するのに十分なものである。

 そこは私は考えが違います。というあたりから先はよって、違う考えになります。
 「日本は近代以前から、少なくとも本州に限って言えば非常に強固な同質性を持っていた」が単一民族論に聞こえないでもないなというのは別としても、私はそうは考えません。そしてそれは「本州に限って言えば」という限定にすでに矛盾を含んでいるからでしょう。近代以前の日本についていえば、琉球蝦夷の問題をその原点から内包していますし、また近世の時点でヒデヨシのように中原を志向する非漢民族の動向がありました(これを達成したのがヌルハチです)。つまり、それは緩やかな輪郭のない広がりなのです。そして「朝鮮半島」もそうでしたし、なにより朝鮮民族の自己幻想は渤海を含むものです(つまり半島と民族は同値しません)。また、漢民族の領域と民族には満人と満州が含まれていないことは孫文などの証言からも察せられます。
 ということで、そこあたりから詰めないとその先の議論にはならないかなとは思います。なので、このくらいにて。
 ただ、もうちょっと補足すると、私は、よって、近代日本国家というのをいわゆる日本の領域内外に限定せず、どちらかといえば、江戸が東京に変化する過程からの滑らかな浸潤の運動であり、その最初の摩擦が西南の役というように日本の内部で発生したと見ています。

 ただ俺の見解を言うなら、解放された後も「自身を日本人と考えていた朝鮮人」もいただろうが、大多数の朝鮮人は、「日本人という強制的な同質化から解き放たれ、自身を朝鮮人と考えていた」のだろうと思う。その程度のことは、解放後の朝鮮における民族的機運の高まりを見れば分かることだ。

 それは否定しないし、それが否定できない歴史の上ですでに国家の関係が始まっている。しかし、その時代にそうであったかを「民族的機運の高まりを見れば分かることだ」とするのはどうだろうか。まさにその矛盾が済州島虐殺のなかに現れているのではないか。ここは見解の相違というくらいにしかならないし、まさに、mstilさんという、おそらくは日本国籍のかたが自己の同胞民族をどう認識するかに掛かっている。もうちょっと勇み足でいえば、だから、私は、日本民族を最終理念的に解体したいというモチーフがあるのに対して、mstilさんはおそらく逆なのでしょう。
 余談ですが、洪思翊の最後の言葉については推測なく知ることができますよ。

 ⇒id: finalvent氏が批判されるべき点 : 2009-04-22 - 弯曲していく日常
 このエントリは前回の私のコメントを読まれていない(アムネスティの言及などがない点など)のでそこでまた応答すべきでもないかと思うけど、これはひどい誤解だなという点だけ指摘しておきたい。

独立によって成立した例えばフィリピンというものが、それ以前から(潜在的に)存在し、主権が不当に奪われていたという理解は正しいとは言えない。

 と私も言っているのだが、基本的な読解力の問題なのだろうか。こういう失当な「批判」をどう受けてよいのか困惑する。

植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたのは事実。

 それが「植民地」という臨界をもてないがゆえに、滑らかな浸潤がある。そしてそれは支配しようとした国家の主体とされる内側にすら滑らかに浸潤していく。

無意味に中国全土を8年以上荒し回ったあげく2000万人にも及ぶ人を殺害した「日本人」であるわたしがそう言う権利があるだろうか。

 noharaさんのお年が80歳を超えているとは思わなかった。中国人を殺害した責務を負うのは「日本」という国家幻想であり、その浸潤をうけていた当時の日本であった。その国家を継承するがゆえに中国という国家に今の日本という国家、つまり国家幻想は制度的に責務をもたなければならないが、それは、finalventという戦後の日本国籍の日本人ではない。というか、こうした話は日中国交回復のとき毛沢東などもそう言っているのだが。

というのは、finalvent氏はイスラエルによるガザ空爆を非難せず、「人間の盾」どうのこうのという言説を書き付けている卑劣な奴だ。

 まあ、これははてな通報レベルの侮辱だなと思うが、前回も書いたが、私のガザ空爆の認識における「人間の盾」の認識はアムネスティに同じ。つまり、アムネスティは卑劣な奴だという人に、褒められるでは困ったことになる。

帝国主義とそれに寄生している自己を免罪したいという欲望が放置されたまま、文章の底に嬉々としてのたうっていることをわたしたちはじかに感じとることができる。

 だから、私は帝国主義という概念を解体する歴史を考察している。まあ、その他は、まいどまいどの「私の知らない本心」をたーんとご批判されるの部類。

ガザで殺された人はただ単にそこで生活していて、イスラエルの高度な武器が撒き散らした破片がぶつかって破壊され死んでいった人たちである。これを記述するのに「人間の盾」などというタームが入り込む余地は一切ない。それをするのは卑劣な奴だけだ。

 ロンドンに本部をもつアムネスティもね。

きちんととはどういうことだろう。当事者たちが数十年間口にすることもできずに沈黙していたその巨大な残虐。

 沈黙だと思うのは、noharaさんがその歴史を生きた人に実際の生身の人間として会ってこなかったからだよ。私は沖縄で八年くらし、その人々から直に聞いてまわった。2.28の生き残りの人の話を台南に聞きに行った。済州島の話は父の関連で聞いた。歴史というのはその中で人が生きているものなんだよ。

で現在の日本の従属性を認識しているfinalvent氏が、なぜ頼まれもしないのにイスラエル擁護に回るのかわたしには理解しがたいが。

 イスラエルの擁護なんかしてないんだってばさ。
 あと、noharaさんがこの話題を南京虐殺ホロコーストに結びつけていく議論はよくわからないし、そこでどうして私が卑劣漢にされているのかもわからない。
 私はこう考えている。過去の虐殺から今の人間が学ぶべき最大のことはなにか。虐殺を繰り返さないことだ。2003.11月からはてなダイアリーを始めたというnoharaさんはこの間に進行していた世界の虐殺についてどう対応したのだろうか。きみが関心をもっているのは南京虐殺イスラエル問題だけなのかい?
 ⇒言葉や論理の形式にこだわりたい。 - ノンセクションの1

1つの文章の中で1951年以降の日本が独立し、かつ独立していない事になっています。
言いたいことは解らなくはないのですが、変な文章だよね。

 じゃあ、解説すると、独立したというのは大本営発表、独立していないは単なる観察事実。大本営は大切にしたいよね。
 ⇒広義の日本人こそが、皇国に反逆した(3) - 弯曲していく日常

さて最初の論点は、
☆1 finalvent氏は、植民地支配の不当性を認めようとしない。

 おやおや、どこからそんな妄想を。私の知らない本心のご推察というのかな。いえ、植民地支配は不当だと考えますよ。
 よってこれに続くnoharaさんの話は、どうぞご勝手にの部類ですが。

植民地にされたエリア(いまだ国家をもてないもの)が、圧倒的に理不尽な抑圧を受けたという事実自体をfinalvent氏は認めない。

 いえ、認めていますよ。普通に近代史を学んでそれを認めないのはどうかと思うし。

植民地の存在について話しているのに、「「植民地」という臨界をもてないがゆえに」と返してくる。

 植民地はありますよ。臨界が明確ではないとういことです。そしてのその不明瞭さは「国家」の領域だけではないということです。

植民地に生きるとは植民者の感受性に同化することでしかありえない。もちろんなるべくそうではない生き方をしようとすることもありうるが、大勢は帝国に経済的文化的に従属していく。「浸潤」というのは存在する。

 このパラグラフが「ありえない」が「ありうる」と自己撞着的な矛盾に陥っているので、なんともコメントしづらい。また、「大勢は帝国に経済的文化的に従属していく」はそのとおりだが、noharaさんは、どうもリカールドの経済学レベルもご理解していない印象がある。というのは、これは原理的には従属の必要性はないからだ(比較優位の互恵性)。

幼時から日本語日本文化を懸命に勉強し東大にまで至るような必死の努力の集積により、「半ば日本化した」台湾。いっぽう日本の方は植民地からの影響はほとんど受けない。この両者を一括して「滑らかな浸潤」と言ってのけるのは、どうだろう、まあ悪質な植民地主義者というしかないだろうね。

 いや、それはnoharaさんが生きた人間の歴史を知らないからだよ。「日本の方は植民地からの影響はほとんど受けない」ではなく、植民地やまた東京の郊外を含めその変化は相互的に行われる。端的なのは人材を発見し育成する過程にある。誤解される比喩でいうなら、ガンジーを生み出したのは大英帝国なのだ。
 たぶん、noharaさんは、「植民地主義」の「主義」という言葉の意味がよくわかっていらっしゃらないのだろうと思う。これをなにか思想保持者の政治活動だと見ているのではないか。-ismというの基本義は「現象」に近い。そしてそれは現象を先行させるなら、その評価は歴史がつねにそうであるとマルクスも見たように両義的なものなのだ。
 noharaさんのような国家主義者の発想からはやがてこの世界から国家や民族が止揚されるというヴィジョンを持つことができるだろうか? いつまで国家や民族といった幻想に体衆を従属させたいのか。国家や民族を解体し、地域の連帯のなかに滑らかに解体していくビジョンがなければ国家間の戦争が繰り返されるばかりだ。もちろん、それが言語の否定ではないことは第二次世界大戦後のEUに至る道における仏独を見れば明らかだろう。アジアにEUのような地域の滑らかな統合性をもたらすのはどのような理念だろうか。
 もう一つ、人がどの国家に所属するかはただの偶然に過ぎない。その意味は、人の本質が国家といった仕切りを基本的に解体していく動的な力を内在しているということだ。
 という私がどうして、

ただ現状ではただの植民地主義の肯定をとなえているだけだ。

 になるのだろうか。
 また私が沖縄戦体験者や2.28事件の生存者と交流したことに、

ほう。これはびっくり!
聞き取りであってもそれだけの体験をして、それで、ひたすら「滑らかな浸潤」の強調ですか。

 noharaさんは、たぶん私とその体験をある思想信条の正義から愚弄したいだけなのだろうけど、実は、この言明において、愚弄には、私に向き合った、その体験者が含まれているのだ。その意味がわからないとすれば、これはちょっと心の病に等しい。

沈黙、語りがたさとその人の身体との葛藤を距離を隔てながらも体験できるのが、生身の面接の特権だろうと思います。

 生身の特権ではなく、noharaさん、あなたの実存がこの歴史のなかに生きるが問われているのだ。人が「人の本質が国家といった仕切りを基本的に解体していく動的な力を内在」にその人生においてどう目覚めうるか。
 少し下品な推測をすれば、noharaさんは、大日本帝国に心酔した中国人を同じように愚弄するのではないだろうか。それがもたらしたものは法によって断罪されなければならないかもしれないが、しかし、一人の人間がその時代に生きた、その人間に向き合う情熱のなかに、「人の本質が国家といった仕切りを基本的に解体していく動的な力を内在」することがありうる。

その関連でfinalvent氏が書かれたブログ記事あるいは活字になったものなどあればご教授ください。

 あー、極東ブログを全部読め。
 いや、僕はいつか誰かがあのブログを全部読んでくれると願ってはいる。可能性はないと思うけどね。