なんとなくポエム的に

 人はどのくらいの年齢で挫折するものか。
 まあ、幼年期ですら挫折はあるわけだが。
 挫折というよりは、可能性の手遅れというのが気になるのだが。
 端的に、若さというのは、帰らない。
 若作りの人はいるし、アンチエイリアシング(誤記:アンチエイジング)とかまあ、がんばれよ、そういう人々。
 で、その若さとは身体。
 でも、身体というのは、たとえば、子をなす、とかいうときは絶対的な境界をつくるし。
 心とはいっても、実際には、身体を離れた心はない。
 50歳の男が10代の少女を愛することは、まあ、できないと言ってもいいだろう。
 いやそこが難しい。いや、ロリとかその手の話ではない。
 いずれにせよ、可能性の手遅れというか、もうそういう人生の可能性は自分にななかったのだというのが、くっきりと見えてくるのは、50歳くらいだろう。
 女性の場合は、もう上がり、だろう。
 40代くらいから、ああ、こういう人生しか生きられなかったなとは、男女、ともにいずれにせよ思うのではないか。
 30代くらいからあるか。
 こういう人生しかなかった。
 こういう人生しかなかったのが自分なんだ。
 もちろん、年取っても可能性とか考えてもいいけど、まあ、ご自由にだけど。
 こういう人生しかなかった、という人生の過去と、自分のそういう限定性に、しかし、意識はどうも馴染めるものではない。
 端的に言って、別の人生はあっただろうとは思う。もちろん、理性的には、ないですよ。
 このあたりは微妙だ。
 この自分がまさにこうあるしかないというのは、運命は運命だが、偶然は偶然なんで、なんでこれしかなかったんだろうとは思う。
 悔いや後悔の形を取るのだけど。ただ、正確にはそういうものでもない。
 というのは、意識がある程度しっかりしているなら、悔いや後悔が実現されるべき過去の時間は、ない、からだ。
 というか。
 時間のなかで失われ、無になった、ざまざまな無。
 でも、その無が有であるようなリアリティというか、強度というものはある。
 その強度が、むしろ今の意識のリアリティを相対化してしまう。(失われた愛のなかを一生生きる人がいても別段不思議でもなんともない。)
 人は、どうしても、ある程度夢の中を生きているし、生きられなかった多数の無の強烈なリアリティはどうしても死の向こうに別のリアリティを形成してしまうものじゃんじゃないか。
 別段、客観的にそういうものがある、とか、阿呆な話じゃなくて。