特になんかのエントリを読んでとかではなく、ごくふと。

 人はだれも、自分を愛してくれる特定な存在があると信じたいと思っている。
 そういう確信みたいのがないと、不完全に生まれた存在としてはつらい……というところに、しかたないけど、方法論的な間違いはある。
 「人はだれも、自分を愛してくれる特定な存在があると信じたいと思っている」というのは(事実性は)、自我の関係にあるか、あるいはその生成中にある。関係的な事実性であって、それ自体の事実性ではない。
 「そういう確信みたいのがないと、不完全に生まれた存在としてはしかたがない」というのは、それほど自我の問題ではない。自我以前の問題。
 だから、自我というのが、自分を愛してくれる特定な存在があると信じたいと思っている、という矛盾した存在だということ。
 これは多少なりとも物を考えることができる人間なら、そんな自我が思うような特別な存在はないと知っているし、およそ、自我とはそのような存在であることを前提としている。
 なのに、意識されながら、実際には、意識の混迷がつねにある。無意識とか身体の問題もあるだろうが。
 おそらく、正義とか理念というものの、少なからぬ部分が、実際にはその意識の混迷に根を持っている。
 たとえば、人には誰も人権がある、生存権がある云々。でも、実際には、私とダルフールの民衆の人権は異なる。いや……異なるわけがない……だが、現実には異なる。
 思想的な調停はできる。人権とはライシテのようにそれ自体が人類によってチャレンジングな課題だと。ただ、現実には嘘くさい。
 現実には、国家は国民・民族の互助のシステムのように見せかけて、そして、その「自我」を「愛する」かのようにしくまれていて、そして、自我は、社会的にはその虚構の上で人権なり、愛なりを前提とするが、端的にいえば、それこそが国家幻想の罠を前提している。
 それがいい悪いでもなく。
 マドンナの貰い子がうまくいかないというニュースがあって、それ自体にはそれほど関心はないが、彼女の考えはわからないでもない。「個人」というのは、自分の子という関係の否定を含み込んでいるのではないか。彼女はそれを知っているのだろう。
 人は、親を持ち、あるいは、子を持つ。そしてそれが他者の親や子と、区別される家族の幻想の領域を持っている……のだが、近代国家の友愛の原則、あるいは幻想は、そこに微妙に矛盾している。
 友愛の原理がおそらく本質的には同性愛になるというのは、生物的な子をなすというタイプの愛情の原理の否定を含み込んでいるからだろう。