日経春秋 春秋(4/2)

だからいま高村光太郎の詩を彼らとともに味わいたい。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる、有名な「道程」では「この遠い道程のため」が繰り返される。道は遠い。でも、暗くはない。「牛」もいい。「牛は平凡な大地を行く/やくざな架空の地面にだまされない」。愚直で明るい生を謳(うた)う。

 ほぉ。高村光太郎とか現代にいたら、きっとはてなダイアリーで毎回ブコメ100は鉄板の日記を書いているような人だよ。

一方で「智恵子抄」は悲しく美しい。妻、智恵子との死別があったからだろうか、暖かくなると咲く、黄色い連翹(れんぎょう)の花を光太郎は愛した。きょうは光太郎の命日。連翹忌と呼ぶ。「連翹の黄は近づいてみたき色」(稲畑汀子)。明るい春の情景だ。冬は必ず終わる。若者たちとだけでなく、世界中でかみしめたい。

 私は思うという限定だけど、智恵子の狂気は光太郎も共犯な部分は大きいと思う。
 「智恵子抄」で心に残るのは、

  裸形
 
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙(めのう)質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた

 「裸形の背中の小さな黒子まで」が悲しいというか。