泳いでいてふと思ったのだが

 歎異抄に、親鸞が述懐して、弥陀の救いは親鸞一人がためなりという自己陶酔的な話があり、ああ、教行信証にも愚禿鸞とかあるし、和讃にもあるが、まあ、あの一人の救いという意識だが、亀井勝一郎とかとかそれを実存の意識みたいに問うのだが、あの部分は意外に難しい。
 あれは一種の世界系というか、実際に、親鸞はその世界が自分の救いのためのフェーズとして知覚されていた、というか、そういう知覚の問題じゃなかろうか。