日経春秋 春秋(3/9)

 ある問題について書いた記事に対し、たくさんの抗議の手紙を受け取ったことがある。言論に批判は当然だが、全く同じ文面のはがきや封書が毎日、数十通も届く。2週間でぴたりとやんだが、気味が悪かった。それが狙いなのだろう。

 その感覚はブログをやっていて感じた。郵政選挙のとき、ダルフール危機の問題を提起しはじめたとき、切隊さんがスクラムにあったときのなぜかとばっちりとかだった。私をネット右翼と見なそうとする印象操作と匿名の場からの誹謗や罵倒がすごかった。私にネット右翼歴史修正主義者のレッテルを貼れば先行隊のターゲティングは完了するらしくそこで別の部隊の攻撃が自動的に起きるようだった。言葉の踏み絵も投げつけられた。
 また、なぜか私をアルファブロガーとかだと見なして腐敗した言論の権威者と見なすものもいた。私は自身をアルファブロガーとは思わない。アルファブロガー(笑)とすら思わない。ただのブロガーである。
 まあ、それらの批判には正しいものがあったのかもしれないが、私に向き合う言論者としての個というものはついぞ見えなかったように思う。鵺と不定形な悪意に向き合うような孤立した疲労感はあったが、それこそがあまり人に伝わるものではなく、私を被害妄想に思っている人もいるようだった。類似のものに襲われた人たちから吐息のような共感をもらったことはあるにはある。
 こうした現象に慣れはしたし、なんというのかある種、組織的に攻撃する人たちの利害のシマのようなもののがあることはわかったし、別段私は利害には関心がないのでなるべくそこには触れないようにしようとは思った。
 私の小沢支持はその理念的なものであって、これから小沢政権が樹立するのが好ましいとは思ってもいない。だいたいがあの健康状態で首相が務まるわけもない。しかし、そうした理念性はうまく伝わらず、自動運動的な攻撃のシステムは作動するのだなとは思った。